20そこそこで、女子プロゴルファーとして日本国内で大活躍、主戦場をアメリカに移した宮里藍と上田桃子が苦しんでいる、ように見える。ときに10位前後のスコアを出すこともあるが、調子の波が大きく、先週も予選落ちして、決勝ラウンドに残れなかった。アメリカで賞金女王になった岡本綾子を除いて、厚い壁にはねかえされる女子選手が多い。 生活習慣のちがい、言葉の問題、技術の未熟・・・いろいろな要素がからんでいるのだろうが、私には宮里、上田は若すぎる、早すぎるチャレンジ、と見えて仕方がない。彼女たちは幼少の頃から父親やコーチについてゴルフを始め、10代後半にはメキメキ力をつけてプロ入りして、日の出の勢いで並みいる先輩ゴルファーをけちらして、トップの座にのぼりつめる。憧れのアメリカが手の届く近さに見えてくるのだろう。登り坂、怖いもの知らずの勢いがあって、彼女たちをアメリカへ押し出してしまうのだろう。まわりも、思わず彼女たちの可能性に目がくらむ。何より若さがある。少々の失敗は必ず克服できるだろう、と若さを過信することになる。 マラソンの増田明美さんが成田高校生だった頃、1981年、コーチの故・滝田詔生さんに取材したことがある。増田さんは走るたびに記録を書きかえていた。まさに昇り龍のようだった。卒業後は滝田・増田師弟コンビは川鉄千葉で競技生活をつづけた。さらに右肩上がりの成績が出る。向かうところ敵なし。女子マラソンは1984年のロサンゼルス・オリンピックから、正式種目になることも決まった。 滝田コーチは経験も豊かだった。増田さんの先輩で、将来を期待された女子中距離選手が大学に進んだあと、大学の部活に適応できず、競技生活から離れたという苦い経験から、ある意味で練習以上に選手の自己管理がいかに大切かを思い知った。何もかもコーチに頼るのではなく、自分で練習計画を立て、生活を律していくことが必要だと、滝田コーチは技術のみならず、生活指導にも細かく気を配っていた。増田さんの練習計画は万全だった。 「増田の心身のピークは8年後、1992年の(バルセロナ)五輪の頃でしょう。26歳の増田が楽しみです」と、滝田コーチは言った。ところが、増田さんの成長は予想以上に早かった。ロス五輪のマラソンに間に合ってしまったのである。事実、ロス・オリンピックに出場したが、結果は惨憺たるものだった。伸びるものをとめるわけにはいかない。伸びるときに伸ばせよ、の方針は間違いではない。しかし、あのとき、滝田コーチの内心の練習メニューには、8年の時間が予定されていただろうと思う。 何事にも「たら、れば」は禁物だが、もし増田さんに8年のゆっくりした練習時間が許されていたら・・・と、ついつい思ってしまうのである。心身の状況を見ながら、ゆっくり成熟する練習は不可能なのであろうか。 宮里、上田の場合は増田の場合とは少しちがう。日本は制覇したから、次は当然、アメリカが舞台だ、となったのだろう。誰かがブレーキをかけて、心身の成熟、たくましさを身につけてからアメリカへはばたく。20代後半から30代前半あたりに、心身のピークをもっていくような計画はつくれないだろうか。“フレッシュでかわいい”イメージより、エージング(年をかさねる)のイメージのスポーツ選手の挑戦を見てみたい。やがてまちがいなく、人生90年時代が来る。スポーツ選手も、心身のピークを少し遅くする工夫があっていいのではないか。若い宮里、上田の苦戦ぶりを見ながら、そんなことを考える。 ※関連アドバンテージ:vol.239-1「増田明美さんの結婚」 |