オリンピックはどうなっていくのだろうか。隆盛を誇っているように見えて、その実、オリンピックというかけがえのない存在が持っていた独特の魅力はどんどん薄れていっているのではないか。
2012年大会はロンドンで開かれることが決まった。3度目の開催である。今回の開催地決定で最終候補に残ったのは欧米の大都市ばかりで、そうでないところは一次選考で早々と落ちた。大国の大都市でないと候補にすらなれないという傾向は、近ごろとみに強まっている。
もちろん、本来の理想はそうではない。これは平和運動であり、さまざまな民族の相互理解のためのものでもある。いろいろな大陸のいろいろな街で、それぞれの文化を生かした特色ある大会が開かれるべきなのだ。ところが、このところ加速し続けてきた肥大化や商業化がそれを阻むようになった。いまや「すべてに巨大できらびやか」が標準仕様になってしまっている。
一方、肝心の競技の方はといえば、中身が急速に変わりつつある。テレビに向くように、である。いったいどれだけの種目が、テレビ放映を意識した時間短縮のためにルールを変えただろうか。成功したと言っていい例も少なくはないが、その反面で長年培ってきた、その競技ならではの特色や魅力が薄れるのは避けようがない。テレビに向かないと烙印が押され、変身もままならずとなれば、五輪競技として生き残れない時代なのだ。
しかし、オリンピック本来の魅力はさまざまな個性にあるのではないか。伝統もあり個性も豊かなスポーツが勢ぞろいするからこそ、オリンピックにしかない魅力が生まれていたのだ。だが、テレビという共通項でくくられてしまえば、当然それぞれの個性は薄れ、オリンピックをオリンピックたらしめてきた「らしさ」もまた薄れる。そこをかえりみないでいいのだろうか。
こうした流れが続けば、すべてが画一的になっていくはずだ。同じような大都市で、同じような雰囲気の大会が開かれ、同じように変えられた競技ばかりが行われるのである。いかに豪華でも、それではいずれ飽きられるだろう。
ビジネスと理想。豪華さと親しみやすさ。変化と伝統。そうしたもののバランスをとってこそ、オリンピックの価値は高まる。かつてはあまりに変わらなさすぎて危機を迎えた。だからといって無理に変えすぎれば、いずれまた行き詰まる。どちらにも偏らないバランスとは、いかにも平凡な常識的結論だが、突っ走り続けてきたオリンピックには、いったん立ち止まって平凡な常識にも思いをいたす時期が来ているのだ。
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