「野球王」というタイトルにひかれて、芥川賞作家・辻原登さんの短篇集「枯草の中の青い炎」を買った。「野球王」と表題作は野球がテーマになっており、二篇ともとても面白く読めた。
「野球王」は構成・技術的に、中々手のこんだ短篇で感心した。和歌山県の海岸にある小さな村の小学校で、「私」と野球王は昭和33年に卒業した同級生、「野球王は小学生の頃はそれほど野球に熱中していたわけではない。がっしりしているうえに上背があり、しかも足がめっぽう速い。怒り肩に大きな頭がのっていて、眉は太く、眼窩はくぼんで、そこから暗い、茫漠とした視線が放たれる」と描かれている。
野球王の中には底知れぬ暴力性のようなものがとぐろをまいていて、みんな恐れ、クラスの中で別格的な存在だった。野球王は高校で甲子園出場をはたし、卒業後、関東のノンプロチームでも活躍したが、野球部内で暴力事件を起こして、野球生命は絶たれた。その後は大阪でタクシーの運転手をしていた。
38年ぶりに白浜温泉で開かれた同窓会で、「私」は野球王の死を知る。野球王は勤めを終えて、南海高野線金剛駅で降りたあと、線路を歩いて電車にはねられて死んだ。夫人も会社の同僚も、決して自殺をするような人ではない、という。短篇の最後のフレーズは「ひょっとしたら、私たちが恐れたあの暴力は、はじめから彼自身に向けられたものだったのではないだろうか」。
短篇のあらすじを要約するなんて野暮の骨頂、だからどうした、というだけのことになってしまう。ぜひ作品を読んでいただきたいと思う。少年の頃から、体の中に言うに言われぬ無気味な謎のようなもの、この場合は暴力性とでもいうべきもの、を持っていたひとりの人間の短い人生の姿が、あざやかにスケッチされ、味わい深い短篇になっているように思った。
この短篇を読んだ翌日、新聞の社会面でひとりの元プロ野球選手が、「野球王」の舞台となった同じ和歌山県で亡くなったという訃報を見た。
「福士敬章氏(ふくし・ひろあき=元巨人、南海、広島投手)4月13日夕、和歌山県みなべ町のマージャン店内で死亡しているのを訪ねてきた知人が見つけ、県警田辺署に届けた。病死とみられる。54歳。鳥取県出身。
鳥取西高から1969年にドラフト外で巨人に入団。4年間勝ち星がないまま73年に南海へ移籍し、主力投手として活躍。77年には広島へ移り、2度15勝をマークするなど6年間で58勝を挙げて広島のリーグ制覇に貢献した。通算成績は339試合、91勝84敗9セーブ、防御率3.68。78年まで松原明夫、79年は福士明夫の名でプレーした」
福士は広島を解雇されたあと、83年には渡韓して、いきなり30勝をあげ、最多勝利投手にもなっている。 私は福士に直接会ったことはないが、ちょっと縁があるのだ。鳥取西高は私の母校であり、さらにいえば、私が卒業した鳥取県智頭中学で、福士は私の弟とバッテリーを組んでいた。そのときは福士は捕手、弟が投手。中学卒業後、福士は鳥取西高、弟は八頭高に進み、それぞれ投手として活躍した。福士はプロ野球、弟は関大→京都大丸のコースで、都市対抗に出場して、二人ともがんばっていた。
そんなわけで、福士投手のことはよく耳にしていた。福士は中、高時代、私の実家によく遊びに来ていたようで、彼が巨人に入団するとき、私の父は「あんなおとなしい子が、巨人のような派手なチームに入って、ようやっていくじゃろうか」と心配していた。案の定、内気な福士少年は、海千山千の巨人では芽が出なかった。それでも山陰人らしい粘り強さで野球を続け、南海、広島でひと花咲かせたのだ。
韓国野球を引き揚げてから、生活が不如意らしい、と耳にしたことがある。死亡記事にもあるように、名前が3度も変わっていることを見ても、安定した穏やかな人生ではなかっただろうと想像がつく。けれん味のない、小気味よいピッチングをした、いい投手だった。 |