12月30日に開幕する第84回全国高校サッカー選手権の47都道府県大会のうち、20大会で審判資格を持たぬ人たちが、主審や副審をつとめた試合が行われ、3人の審判すべてがそのようなケースの試合もあった―日本サッカー協会が明らかにしたものである(11月10日)。 規定では、審判登録されていないいわゆる「無資格者」は、公式試合を担当することができない、とされている。 この事態で、いまのところ、試合の無効を訴える動きはないようだ。「無資格の人が担当することになったのか」を、多くの関係者が“理解”しているからではないか。 サッカーに限らず、国内の多くのスポーツ団体は、審判員や大会運営者(競技役員)の不足に悩んでいる。 どの団体も、これまで“主力”は、高校や中学の教員だった。 その人たちが積極的、というより、頼り切っていたのである。 それが、少子化−学級数の縮少−教員の減少となり、しかも、教員の校務は、格段に増えている。意欲を持っていても参加できず、審判担当者は埋まり切らなくなる。そこで資格がなくとも熱心なら、あるいは、近々資格を取得するので、といった人たちの“力”を借りて、配員のやり繰りをするのだ。 参加チーム側も、実態、現情を知っているだけに、批判はカゲをひそめる。大会要項にただし書きする大会も増えて、なかば公認、の状況といえる。 サッカー以外のボールゲーム関係者の1人は「サッカーだから報道されるのかな。いまや、どの高校スポーツでも常識的・・・」と言ったほどである。 問題は、規定を設けながら、人材確保の手だてなどが進まない(進めない)姿勢だろう。 教員依存の行き詰まりは見えていたのだ。審判員への門扉を一般向けに大きく拡げ"仲間うち"の狭さから飛び出す必要は、とうに生じていたのである。 複数のスポーツ団体が連携して初歩・基礎講座を開き、そのあと各スポーツの専門研修を、会社員などの参加しやすいウィークデーの夜間に開くなど手はいくらでもあろう。 ヨーロッパでは、2つも3つものスポーツで審判資格を持つ人が多いのは、活動の基盤がクラブということもあるが、審判員への道に入りやすいためだ。 「教育」のなかでスポーツが育った窮屈さを嘆きながら、日本のスポーツは「教育現場」の力に頼らざるを得ない浅さ、薄さを、相変わらず引きずっているのではないか―。(関連コラム vol.216「プロ」を「アマ的審判員」が裁けるか) |