1月2日、今年も第82回箱根駅伝の応援に出かけた。家から歩いて20分、3区のほぼ中間点、松下政経塾の近くで読売・報知の紙旗をもらって、選手が走って来るのを待つ。 年末、東海道線に乗ったら、パッと目に飛び込んだ車内吊り広告があった。ふつうの広告を2枚つなぎ合わせた横長ポスター。全面白地に金色の縁取り、文字は「HAKONE
EKIDEN」とゴシック体で、これ又金文字。「A」が富士山型に長く右にのばされ、「O」だけが赤く日の丸になぞらえてある。まるで富士山の初日の出だ。あとは右下に小さく、日本テレビの放送中継時間が印刷されているだけ。一瞬、昭和39年の東京オリンピックのポスター(亀倉雄策製作)を思い出した。 久しぶりにシンプルで迫力のある、すっきり仕上がった車内吊りポスターだと感心した。 10時50分頃、若い選手たちが風のように走ってくる。曇り空だが、うっすら汗をかいた選手だけ陽が当たっているような感じでまぶしいほどだ。みんな小旗をうち振って応援する。20人の選手たちは10数分間の間に、全員が駆け去っていった。アッという間だが、やっぱりナマはいいな、と思う。 昨年もこの欄で、箱根駅伝のことを書いた。「箱根駅伝というと、瀬古選手を育てた早大の中村清監督のことが思い出される。年末、本番前の早大チームが明治神宮外苑近くの中村監督の自宅で合宿中だった。練習を終えた若い選手たちが、あまり広くない応接間にギュウ詰めになっている。中村監督は道元『正法眼蔵』を手にして、『行持』の巻16を説いていた。空はどこまで昇って天井はない、というような哲学を話して聞かせていた。『まあ、こんな話をしても分からんだろう。それでもいい。将来、いつか私の墓の前を通ることがあったら、そう言えば中村というヘンなじいさんが、道元の話をしてくれたなあ、とちょっと思い出してくれるだけでもいいよ』と中村監督は笑った」 今年もそのことを思い、さらにもうひとつのことを思い出した。中村監督は学生たちが合宿所に帰っていくと、棚の上から小箱をおろし、中から釣り針と色鮮やかな細い糸を取り出して、なんと毛針をつくり始めたのだ。釣り針の根元のところに糸を何重にも巻きつけ、針を隠すように糸をけばだてていく。まことに細かい手作業である。 「私は毛針の特許を持っているんですよ」と、きれいに仕上がった毛針をいくつか掌にのせて、うれしそうに笑った。中村監督が亡くなったのは、たしか、上越の魚野川において好きな鮎釣り中の不慮の出来事だった。 1月8日、ミズノ100周年記念・スポーツシンポジウム「Sports
for All Children」が、東京・新高輪プリンスホテル飛天の間で開かれた。スポーツ関係者約1000人が集まり、大盛会だった。 その基調講演は映画監督の篠田正浩さんだった。「スポーツと子どもと教育」という講演は、大変興味深い内容だったが、その中で、中村清監督についての小さなエピソードが語られた。 篠田さんはリーフェンシュタール演出の「民族の祭典」という、1936年ベルリン五輪の記録映画のとりこになり、とくに走る人の美しさにうたれた。その幼児期の記憶が、篠田さんをのちに、早大競走部に進ませたようだ。 篠田さんは昭和25年、箱根駅伝の“花の2区”を走った。箱根駅伝は10人で走るのだが、篠田さんの記録は14番目。だから最初は2区のランナーのアテンドを命じられた。ところが前日、中村さんからお前が2区を走れといわれたのである。大いに驚いたが出場すると、5位でもらったタスキを4位で次走者に渡すことができたほどの快走だった。あとで、「なぜ14番目のタイムしかもっていなかった1年生の私を、選手として出場させたんですか」と訊くと、中村監督は「10番目までに入るタイムを持つ選手と、君のタイム差は1分。20数キロで1分差ぐらいなら、新人のとんでもない暴走があれば、わけなく超えられるものだ。その可能性に賭けた」と言った。 上級生の安定感、平均点の走りより、新人の暴走の可能性を信じ中村監督の人を見る目、ということを考えさせられるエピソードであった。 |