この3月は、日本中が久々に野球に熱くなった。特に、日本が世界一に輝いた21日(日本時間)の決勝戦と、19日の準決勝は異様な盛り上がりをみせた。準決勝においては、野球の日韓戦で両国の国民がここまで熱狂したのは、初めてのことである。
隣国のライバル対決である日韓戦は、大半の競技種目で、プライドをかけた激しい戦いが繰り広げられる。そんな中でも、日韓戦といえば、やはりサッカーであろう。
ただし、サッカーの日韓戦と野球の日韓戦とでは、韓国における歴史的な意味がかなり違う。
戦後(韓国では解放後)、初めての日韓戦が行われたのは、サッカーも野球も1954年のことである。サッカーは、3月に東京で行われたワールドカップ・スイス大会の極東予選としてであり、野球は、12月にマニラで開催された第1回アジア野球選手権においてであった。
サッカーの方は、日本との試合を許可するにあたり、当時の李承晩大統領は大韓体育会の幹部に、「もし負けたら玄界灘に身を投げろ」とまで言っている。一方野球の方は、マニラに向かう選手団に、「ベースボールは日本が強いだろう。しかし、スピリットは負けたらだめだ」と言ったと、伝えられている。
植民地時代、日本に勝てる数少ない競技種目であったサッカーは、民族の誇りであり、サッカーまで日本に負けるということは、誇りの砦が崩壊することを意味した。
野球は日本が強いということは、韓国人も認識しており、それだけに、どんな試合であっても、もし日本に勝つようなことがあれば、「やればできる」という、前向きな希望を持つことができた。
私はここ数年、6、70代の人を中心に、韓国野球の歴史を築いた人たちを取材してきた。彼らが異口同音に語ったのは、日本野球に対する、尊敬と憧れである。それは、彼らを指導した人には、植民地時代に日本でプレーし、解放前後、祖国に戻った人が多かったことも影響している。
WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で韓国代表監督を務めた金寅植が現役時代、実業団のチームでプレーしていた時の監督は、京都商業の内野手として、戦前の甲子園大会に3回出場した人物であった。チームメートにも元南海の選手ら、日本出身の人が多かった。
金寅植は、WBCで日本に2回続けて勝った後も、「日本が上である」ことを、強調していた。そこには、彼の野球人生も大いに関係していると、私は思う。
日韓戦となると、一般の韓国人は、競技種目に関係なく、国民感情をむき出しにし、それが選手たちにプレッシャーとなっている。それでも、昔からの野球人やファンの多くは、日本野球に尊敬と憧れを持っている。尊敬すればこそ、勝ちたいという意欲が強くなるのである。それは、アメリカ野球に対する日本野球の視線に似ているが、敬意には、実力だけでなく、マナーや野球に対する姿勢、精神も含まれている。
WBCにおける、イチローの言動が、韓国で物議を醸している。イチローの日本代表に対する熱い思いは、優勝の原動力になった。また、言葉の意味を違えて訳されている場合もある。それでも今回の言動は、日本野球に敬意と憧れを持っている韓国の野球人とファンを失望させたことも、確かである。
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