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100号記念メッセージ

■vol.137 (2003年3月12日発行)

【杉山 茂】礼を欠く得点より礼を欠く失点が問題だ
【松原 明】松井のデビュー
【早瀬利之】女子プロツアー開幕戦、不動が逆転優勝 〜 プレーオフのあり方を問う
【今城力夫】アメリカス・カップが初めてヨーロッパへ
【師岡亮子】世界選手権メダル3個の感動


◇礼を欠く得点より礼を欠く失点が問題だ
(杉山 茂/スポーツプロデューサー)

Jリーグ・ヤマザキナビスコカップ第1節の京都−大分戦(3月8日・京都西京極)でスコアされた両クラブ合わせて5点のうち2点が"論争"のタネになっている。

いわゆる「ギーブンボール」を大分が、そのまま京都ゴールに持ち込んで、易々と得点したのが発端。マナーに反したと感じた大分は、そのあとの京都の攻撃を、まったくチェックせず、今度は京都が楽々と得点したのだ。

「toto・ゴール」の始まった日でもあり、騒ぎの輪は拡まってしまった。

「toto・ゴール」の"結果"は、どうみたところで、修正や変更の効くものではない。コーチングスタッフや選手の「toto・ゴール」への意識が低い、と決めつけるのは的外れだ。

問題とされるべきは、90分間、全力で戦い抜くという姿勢が、この2点のシーンに欠けていたことだ。

大分の"攻撃"は、通常の慣習からすれば意表をつくものだったろうが、京都は、そのプレーに口をとがらす前に、ともかく守備を布き、ゴールを割らせぬ努力をすべきだった。

その間もなく攻めこまれてしまった、というのは、云いわけにならない。

大分の次のプレーも、理解しにくい。暗黙の紳士協定に背いたことへの"埋め合せ"が、守りの放棄の正当化にはつながらない。礼を欠いての得点と考えても、その後、きっちりプレーしたほうが、はるかによかった。礼を欠いての失点は、京都の不快感を倍にしてしまったのではないか。

勝負というのは、想像を越える驚きがあるから面白い。大分の得点は、その部類に入るもので、味方も、敵も、神経質になることはなかった。

大分の2つのプレーが、「汚い」から「潔い」と変わるあたりに、日本のスポーツ観そのものの変わり身の早さが覗く。

大分の最初のプレーは、一生懸命にやった結果、と私は思うのだ。

この場は"日本的決着"で収まっている感じだが、総ての攻防に持てる力をつくし合うことこそ「フェア」なのである―。

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◇松井のデビュー
(松原 明/東京中日スポーツ)

フロリダ・タンパで練習中の松井外野手は、次第にヤンキースのチームになじみ、開幕を迎える。

ここまで、ともかく無事に来られたのは、入団会見から一貫した前を向いて、堂々と話す松井の明るい態度が好感を持って受け入れられたからだ。

これだけ、鳴り物入りでの入団で、メディアは「何かあったら手厳しく」と、待ち構えていたのだが、いい、悪い、がはっきりし、悪びれるところのない姿勢は次第に、彼らも取り込んでいった。

現在のところ、悪意に満ちた記事は見られない、というのも驚異的だ。

問題はヤンキー・スタジアムへ入ったあとの、地元ニューヨークの反響である。

昨年、大金FAでアスレチックスから移籍した3番ジェイソン・ジオンビー一塁手でも、開幕した約1ヶ月間は調子が出ず、痛烈なメディアの攻勢に悩んだ。

すべて順風満帆とはいかない、熾烈な大リーグの競争で、松井が、どう対処してゆくか楽しみだ。

ジョー・トーリ監督は「何事も忍耐」と松井に教え、周囲にも、対応するよう計らう心遣いの”忍耐論者”。トーリは「最終目的へ達するまではすべて忍耐が必要だ」の信念で優勝を重ねてきた監督である。

松井は周囲の雑音にも妨げられず、進んで行けば、必ず成功するに違いない。

オープン戦がスタートしてすぐ「私はあくまで中距離打者。大砲ではない」と、マイペースを守る、宣言をしたのは賢明な考えだ。日本では「50本塁打は打てる」などの過大な期待を寄せているが、異国で背伸びは禁物なのだ。

ニューヨークでは、日本からの”松井ブーム”で観光客の増加に期待を掛けているが、戦争危機によるニューヨーク市民の不安を払う働きも松井にかかる。バットも大リーグ用に特注し、毎日の反省を経て、工夫を重ねてゆくのではないか。

あまり注目されていなかったイチローの1年目と違って、入団当初からのプレッシャーは大変なもの。しかし、毎日、テレビで見せる変わらぬ笑顔が素晴らしい。ヤンキース・ナインが、これほど、暖かく迎えてくれたのも驚きだ。いかに、彼の実績が尊重され、「一緒にやろう」と、伝統の一員に加えてくれたかが分かる。

名門を選んだ松井は正解だった。

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◇女子プロツアー開幕戦、不動が逆転優勝
〜 プレーオフのあり方を問う
(早瀬利之/作家)

男女国内ツアーの開幕戦、ダイキンオーキッドレディスゴルフトーナメントは、昨年の賞金女王である不動裕里が、中野晶との4ホールのプレーオフを制して優勝した。

不動は2ndラウンドをトップの具玉姫に2打差の3位タイでスタートした。最終日15番まで4ストロークスコアを伸ばして、9アンダーでトップに立った。

これで優勝はほぼ決まったかと思われたが、16番ショートホールで右からの風に押されて、ボールは池に近い傾斜面のラフへ。あとで打った具も左のバンカーに泣かされて苦戦した。

不動はこのホールのアプローチも失敗して、3オンの2パットでダブルボギーを叩いた。この時点で、8アンダーでホールアウトしている中野晶に1打遅れる。

しかし、ダブルボギーの後、17番から「8アンダーを出して、プレーオフに残る」と心をあらたにして立ち直った。

17番ホールはフォローの風が吹く難しい第2打をうまくピンの右2メートルにつけてワンパットのバーディーとして、ついに8アンダーの中野に追いついた。最終18番でバーディーを決めれば逆転の9アンダーとなるが、3オン2パットのパーに終わり、それでもプレーオフに持ち込んだ。

18番ホールを4回ラウンドするプレーオフは、ギャラリーのためだったが、あまり感心しない。

プレーオフは、16番からスタートするか、18番を1回やって、結果が出なかったら17番、18番と続けるなど、変化をもたせた方が盛り上がる。

18番のみのプレーオフは「手を抜いた運営」にとられかねないので、今後は18→17→18とか、16→17→18、それでもダメなら、もう1回18番と変化を持たせるとよろしいのではないのか。見る方も盛り上がると思う。

それにしても、不動の逆転優勝は凄かった。

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◇アメリカス・カップが初めてヨーロッパへ
(今城力夫/フォトジャーナリスト)

10日ほど前(3月2日)のことになるが、ニュージーランドのオークランド沖で行われたヨットレースの最高峰「アメリカス・カップ」で、今回、ヨーロッパのチームが初めて優勝をさらったことが話題になった。

優勝はスイスの「アリンギ」という挑戦艇であったのだが、そのチームメンバーの中になんとスキッパーのラッセル・クーツを含む7人ものニュージーランドのベテラン達が含まれていたことが、いろいろ物議を醸すことになった。開催地からも判断が出来るが、防衛艇は「チーム・ニュージーランド」であったため、ことは更にエスカレートしてしまった。

ラッセル・クーツといえば前回、前々回のレースでニュージーランドを率いて優勝に導いた艇長でニュージーランドにとっては無くてはならない人であったはずだ。

それがこともあろうに大勢の本国のベテランと共に、他国からもオリンピックの勝利者などを集めてチームを構成し、防衛艇である自国のチームに立ち向かったわけだ。

勝利後、「裏切り者」呼ばわりもしたが、彼はプロとして行動したことだと毅然とした態度をとった。このレースはどうも強力な財力と長い経験の歴史が一つにならないと勝ち目がないようだ。

アメリカス・カップは1851年に始まり、米国が130年以上もカップを守り続けていたが、1987年にオーストラリアに敗れて、当時、カップが米国の外に持って行かれるとアメリカ国内で随分大きなニュースになったのを記憶している。日本も以前に参加したことがあったが、未だに日本ではポピュラーになっていない。

このレースは(あまり正確ではないが)オリンピックのように通常4年に一度行われ、勝者が次回の場所や日程を決めるため殆ど防衛艇チームの海をレース場所に設定することになる。

最近は日本のサッカー選手や野球選手も外国チームで活躍している時代だが、今回のスイス艇のやり方は、ルール違反でないとはいえ、どうも後味の悪い結果を残した。

※外来語のカタカナ読み表記は筆者による

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◇世界選手権メダル3個の感動
(師岡亮子/スポーツライター)

2月末にイタリア北部バルディフィエメで行われたノルディックスキー世界選手権で、日本ジャンプ陣は個人銅メダル2つ、団体で銀メダルを獲得した。

今季のW杯ランキング個人総合では12位がトップ、全選手のポイント合計である国別ポイントではトップ・オーストリアの四分の一に満たないポイントで6位のチームにとっては、望外の成績を収めたといえる大会だった。

船木、東、宮平、葛西で臨んだ団体戦は、船木の27歳が最年少というベテラン揃いのチーム。船木が1本着地に失敗した以外はミスなく、それぞれが最高のパフォーマンスを発揮した。

最後に葛西が大ジャンプを決めて、今季の台風の目、ノルウェー選手にプレッシャーをかけ、銀メダルをもぎとった展開は、多くのジャンプファンにとって感動的であっただけでなく、しみじみと感慨深いものであったに違いない。

中学時代から天才と言われた葛西は30歳。16歳の初出場以来、6度目の挑戦でついに世界選手権個人のメダルを手にした。ガラスのハートを持つ悲運のエースと呼ばれた葛西が「僕一人だけ」と喜ぶ3個のメダルを獲得できたことは、所属する土屋ホームのチーム体制と深く関わりがある。

一昨年11月に誕生した土屋ホーム・スキー部は、今まで日本のジャンプ界を支えてきた企業チームと多くの点で違いがある。往年の名ジャンパー秋元正博氏のサポートを得ながらも、土屋はジャンプの技術コーチをフィンランドから迎えた。

ペッカ・ニエメラ・コーチは選手としてはさしたる実績はなく、28歳と若いが、クオピオのプイヨ・スキークラブでフィンランドBチームのコーチをしながら、ジャンプ技術をみっちり学んだ。

土屋との今季の契約は3ヶ月。もちろん、社員になったわけでも、コーチ引退後は社員になるわけでもない。複数の選手やチームと契約して、コーチだけで報酬を得るプロ・コーチだ。

昨季の葛西は、素早く力強く踏み切り弓矢のごとく飛んで行くポーランドのマリシュ型のジャンプを目指し、失敗した。今季は、もともとの自分の「じわじわ踏んでいく」踏み切りに戻そうとは思っていたという。

しかし、ニエメラ・コーチは、空中姿勢も変えるよう要求した。

自分より実績のない年下のコーチの指導を受けることに、葛西は「やっぱり抵抗があった」と言う。しかし、6月のフィンランド合宿で150mを飛んだことをきっかけに、葛西は空中で腰を折る、近頃「くの字」ジャンプといわれるオーストリア・フィンランド・スタイルをものにしようと腰を据えて取り組んだ。

今季話題となっているジャンプスーツも、フィンランド経由で新仕様のものを1月末に手に入れている。

1月には、本人もニエメラも「まだ不安定」と言っていた葛西のジャンプは、2月に入ってすべてがピッタリとはまり出した。そして9日、ドイツのW杯で2年ぶりに優勝。定まらない強風のために1本で終わった試合だったが、2位になった宮平とともに、非常に完成度の高いジャンプだった。

この葛西と宮平が引っ張った日本チームの世界選手権団体戦銀メダルは、1月には最悪だったナショナルチームの雰囲気を劇的に変えた。日本で試合と練習に明け暮れる選手たちに、自分たちにもやれると思わせたこと、若手選手への力強いメッセージとなったことでも、今回のメダルの意義は計り知れない。

しかし、このメダル3個は、ベテラン選手たちが自分たちの観察と工夫と努力、そして経験で勝ち取ったものだったことを忘れてはならない。

今回のメダルは、組織的な強化の成果ではない。そして、今回の好成績で今後の方針が見えたと言える種類のものでもない。

日本の指導者、関係者が認めているように、世界のジャンプはどんどん変わっている。地理的に孤立していて、夏の通常の練習で他国の様子を見ることのない日本は、変化を察知するのが遅くなる。

常に「今、飛べるジャンプ」を探して研究を続けることが、世界のトップでいるためには不可欠だ。それは選手個人には無理なことであり、今の時代では一つの企業チームにとっても困難だろう。

風洞実験ももっと必要かもしれない。効率的な体作りのためには、その専門家の知恵もあった方がいい。選手個々の飛び方とスキー、スーツ、ブーツのマッチングの研究ももっと重要視されていいし、欧州のメーカーとのパイプはもっともっと太くしなければならない。

これらを、企業単位ではなく、ナショナルチームとして進めればいいのではないか。

選手の強化はやはり伝統のシステムである企業チームで行うにしても、ナショナルチームを、「今、飛べるジャンプ」を様々な面から分析し、企業チームに伝える存在とはできないか。

自分たちがやってきた通りのことを選手に教えれば勝てる時代ではない。

とはいえ、長くジャンプを支えてきた各企業にはそれぞれコーチがおり、ゼロから始めた土屋のようにプロのコーチを抱えることはできない。そもそも、日本にはプロ・コーチと呼べる人材はいない。育む環境がないからだ。

トリノ五輪、07年の札幌世界選手権のための強化は、企業チームとナショナルチームの位置付けを今度こそはっきりさせることから始まる。

企業の持ち回りでコーチを出し、企業が育てた選手を預かるナショナルチームでは、コーチ選びでも選手選びでも、バランスをとることに腐心することになる。体作りからジャンプ技術まで実際にナショナルチームで行うシステムは、否定された。

日本の実情に沿うシステムを、先送りにせずに今作る必要がある。

協賛金が集まらない時代ではあっても、仕事を求める人の多い状況は、報酬は少なくても実績作りの場としてスキージャンプ・ナショナルチームを選ぶ施設や人材を求めやすくしている。多方面の専門家の知恵を集めることは役に立つ。

世界選手権で中断していたW杯が再開し、初戦の団体戦ではオーストリアが優勝し、船木、高野、宮平、葛西で臨んだ日本は4位だった。次の個人戦では葛西が5位、宮平が10位、船木と高野は30位以内に入れなかった。

強いオーストリアは世界選手権では惨敗した。いつもの顔ぶれの並ぶ試合であっても、2年に一度だけの大会という重圧は、今季から世界に出た若手には背負いきれないものだったということだろう。

しかし、19歳、1年目の選手を団体戦アンカーに起用して失敗したオーストリアと、百戦錬磨のベテランの力で結果を出した日本の、どちらが次の五輪で好成績を収めるかはわからない。
 
今、一番大事なことは、ベテランたちが奮起して勝ち取ってくれたメダルを、日本のジャンプ界の歩みを遅らせるものと決してしてはならないということだ。

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