今年の6月2日、故石原裕次郎氏の夫人が京都の嵯峨野小学校に芝生を贈ったというニュースがあった(日刊スポーツ、6月3日)。 故人の遺志によるとのことで、東京の自宅から10キロの土を運び、100万円の工事費も寄付したという。これは1,800平方メートルの中庭の芝生化に必要な総工事費1,000万円の1割に当たり、残る900万円は「全国の小中学校の校庭芝生化プロジェクト」を発案、推進している京都経済同友会が負担するという。
校庭の芝生化は、東京でも杉並区の小学校などで行われており、次第に各地へ波及しつつあるらしい。Jリーグも「スポーツターフ研究会」を発足させ、わが国の風土に合う芝生の育成、管理のノウハウを確立しようとしている。 ワールドカップの共催に伴うキャンプ地づくりがこのような傾向を後押ししたと思われるが、話を上記の嵯峨野小学校に限定していえば、石原夫人が寄贈したのは「中庭」の一部であって、全校生徒がもっともよく使う「校庭」ではなく、また当然のことであるが、その後の維持、補修費は行政とPTAの負担になる。
Jリーグの公式サイトで川淵三郎氏は校庭の芝生化について、「つくろうと思えば絶対にできたはず」と過去の無策を批判し、石原夫人の行為はこれに応える意味をもっている。しかし、国民の誰もが良く知っているように、わが国の「安上がり教育行政」がこれを継承、支援するとは考えられず、その不足を経済同友会が肩代わりし続けるというのもありえない。 池田潔氏が『自由と規律』の中で次のように述べているのを記憶している人は多いだろう。 「ケンブリッジのトリニティ・カレッジの前庭で、参観に来たアメリカのある大富豪が、ローラーを押しているみすぼらしい身装の園丁に十円札をつかませて、芝生の手入れの秘訣を尋ねた。水をやりなさい、ローラーをかけなさい。・・・それを毎日繰り返して五百年経つとこうなるんで」。 この「ある大富豪」はロックフェラーでもモルガンでもよいが、「園丁」が、同校の校長でノーベル物理学賞を受賞したJ・トムソン教授だったというのがこの話のオチで、「五百年経つとこうなる」が、アメリカに対する皮肉であることは言うまでもなく、これをわが国に向けたものと受けとることもできなくはない。 かつて私も高校の体育教師時代に芝生化を考え、スポーツ施設会社の社員と放課後のグラウンドを眺めながら話したことがある。 「陸上競技部、野球部、サッカー・ラグビー部の選手は全員スパイクを履いて練習しますが、もっともグラウンドを『耕す』のはサッカー・ラグビー部で、芝生化には最低でも第一、第二グラウンドが必要です」と彼は話し、私は計画の立案を断念した。 その後、機会があって、ラグビー校やイートン校を訪ねることがあり、全校生徒数から考えてサッカー、ラグビーのグラウンドが多すぎると思ったが、これは第一、第二、第三というようにグラウンドを区別して交互に使用するために必要な施設数であり、芝生の維持にはそういう配慮が必要で、これもまた「五百年の知恵」のように思われた。 しかし、このような贅沢が許されないわが国での芝生化には無理があり、すでに芝生化を実現している小学校でも、いずれは「芝生に入らないで下さい」という立て札を立てるのではないだろうか。 校庭の隅に物置になった温室やペンキの剥げかかった百葉箱があるのを見れば、誰でもそう思うのが自然であり、芝生化に熱心な校長や教師が転勤した後の芝生がどうなるかをこの温室や百葉箱が暗示している。 |