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100号記念メッセージ

■vol.131 (2003年1月29日発行)

【杉山 茂】スポーツを金まみれにしたのか「テレビ50年」
【早瀬利之】プロゴルフ界活性化を考えさせる宮里のプロデビュー
【師岡亮子】スキージャンプW杯:日本への示唆に富むノルウェーの成功


◇スポーツを金まみれにしたのか「テレビ50年」
(杉山 茂/スポーツプロデューサー)

1953年2月1日、NHKによって初めて日本におけるテレビ放送が始まった。今年で50年になる。世界で最初にテレビの本放送へ踏み切ったのはイギリスで、1936年11月のことだ。

その3ヶ月前、ベルリンで夏季オリンピックが開かれ、ドイツは、まだ実験段階ともいうべき状況だったが、国威を示すために、テレビカメラを据えつけ、オリンピックとテレビの"最初の関係"を結んでいる。イギリスも、ウィンブルドンテニス、国内サッカーなどスポーツが番組編成に大きなウェイトを占めた。

日本も同じである。53年5月大相撲夏場所を、6月には第25回早・慶対抗水泳などを中継し、8月の高校野球(甲子園)へとつなげる。実験放送期(1951〜52年)も、多くのスポーツ放送が行われ、53年元旦には2台のカメラでライスボウルを手がけている。まだビデオテープなどは発明されていない時だ。53年8月には、民放(日本テレビ)も誕生し、当初から野球などプロスポーツで、妙味を送り出す。

スポーツの持つ映像性、場所を隔てた所からの"同時進行"。内外ともに、テレビはスポーツを離さなくなる。スポーツ側が、テレビを活用したのも当然である。周辺ビジネスも盛り上がる。タイムよりも、スコアよりも、ドルや円の重みに酔う。美しい名が付く。「スポーツマーケティング」!!

放送するための権利金は、テレビ以前、ラジオ時代からあった。だがそれは、実況中継による観客減少の補てんであったり、放送機器などの設置場所使用料の性格とされた。もはやその影はみじんもない。

「これからのスポーツ施設は観客収容力よりも、テレビカメラが何台入るか、入れられるかだ」と云い放ったのは、国際オリンピック委員会(IOC)幹部の1人だ。その施設も、企業の名を冠せる時代である。2006年、ワールドカップの決勝会場も、どうやら、この手が使われるという。

テレビ側は今、放送権料の高騰に悩みを深くする。キラー・コンテンツと知りながらも、手離すケースが必ずや出てくる。半世紀を反省期ととらえぬと、日本でもいずれどちらかが、倒れることになるだろう。

インターネットでのスポーツ中継構想も、各方面で具体化しつつあり、テレビとスポーツの関係もこれまで通りとはいくまい。

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◇プロゴルフ界活性化策を考えさせる宮里のプロデビュー
(早瀬利之/作家)

大型新人・宮里優作が全米ツアーのソニーオープン(ハワイ)でデビューして予選をクリアし、初めて賞金を手にした。日本円にして50万円そこそこの最下位に近いランクだったが、強烈なプレッシャーの中での予選突破は、私としては高く評価したい。

なぜか。

タイガー・ウッズのプロデビューは別として、他の若いトップ・アマのプロデビュー戦はほとんど予選落ちしているからである。アマチュアとして出場しているときは、同伴者や他の選手も「ウェルカム!」と声を掛けてきてくれるが、同じプロとなると誰も声をかけてくれないばかりか、敵視する。つまり、自分の事しか考えず、新人なんかには目もくれない。「落ちていく奴は落ちろ」「自分の力でビジネスしろ」という態度になる。優作は、それを肌で感じ取っていた。

しかも、米ツアーでは、友人もいない。全くの孤立無援の世界。そこで生き残るには、強靭な意志と体力を要する。

それでいて、予選を突破したわけだから、これは高い評価である。日本ツアーだったら、デビュー戦で上位に入っていただろう。あまりにも、大波の海原に投げ出されて「一人で泳げ」といわれたのも同然。

日本のゴルフ界としては、新人を育てる環境が必要である。その環境とは、試合に出場できる環境のことである。規定では6試合とある。それも、とびとびのスケジュール。そうではなくて、初戦から6試合か、または8月までの上半期全試合に出場資格を与える、という規定の改善が望まれる。

「宮里が出れば、誰か一人がはみ出されるからダメだ」ではなく、活性化のため「宮里を追加させる」配慮が必要である。

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◇スキージャンプW杯:日本への示唆に富むノルウェーの成功
(師岡亮子/スポーツライター)

1月22日から26日まで、白馬と札幌でノルディックスキー・ジャンプと複合のW杯日本シリーズが行われた。天候に恵まれたのは22日の複合だけで、あとは激しい降雪に強風、さらにはあられと、遠路はるばるやってきた欧州の選手にも、楽しみに待っていた観衆にも辛い試合の連続となった。

ジャンプは、白馬ではオーストリアの新鋭18歳のナギラーがW杯初優勝。札幌ではヨケルソイとペテルセンという、今季の台風の目、ノルウェー勢が連勝した。ドイツがトップチームを派遣しなかったとはいえ、今季絶好調の2カ国オーストリアとノルウェーの、しかも新しい名前が優勝したことは、いかにも今季を象徴していた。

リレハンメル五輪後、暗闇の中でもがいていたノルウェー・ジャンプ陣は今季、フィンランドから優勝請負人ミカ・コヨンコスキコーチを招いて大変身を遂げた。そのコヨンコスキ自身、「表彰台まで2年かかる」と思っていた選手たちの躍進に大いに驚いている。

コヨンコスキの腹心の一人、ノルウェー人のベルダルコーチによると、方針がはっきりと示されたことだけで選手たちは大きく変わったという。もがけばもがくほど落ちる数年間で、選手はコーチも協会も信じることができず、自信のかけらさえ持つことが出来なかった。

そこに乗り込んできたフィンランド人コーチは、簡潔な英語で「これだけ守れば大丈夫」と繰り返した。フィジカルトレーニングの質を変え、踏み切りテクニックを教え、各自に合った用具を選びなおした。そして夏の間中、この守るべきラインを守ることだけに集中した。それだけでまた競技力を取り戻せたというのだ。

どの選手に訊ねても、このアシスタントコーチと同じ答えが返ってくる。チーム全員に今季の方針が徹底されていて、同じことを考えている。羨ましい限りだ。

ノルウェーはジャンプの伝統国。日本も同じだ。伝統国ゆえの派閥争いに主導権争い、硬直化した協会、マーケティングの失敗による強化費の減少、他のジャンプ強国と国境を接していない、南北に細長く国内の連携が取りにくいといった地理的要因まで共通点は多い。自国開催の五輪に向けた強化の、負の遺産に苦しむ図式も一緒だ。自国人ヘッドコーチではまとめられぬとスロベニア人を招き、失敗したことまで同じ道を辿っている。

個人種目の強化は、チーム全体の競技力の向上があって初めてできる。日本は、白馬で宮平が表彰台に立って一息ついたかに見えるが、実は国際レベルで戦える選手が一人しかいない厳しい現実を突きつけられたにすぎない3試合だった。

7月末にやっと立ち上がった新体制は、関係者全員の話し合いに基づくものでも何でもなく、信頼と協力を得られぬまま10月からスタートしたナショナルチームは2ヶ月の遠征で音をたてて軋みながら帰国した。

企業が育て、ナショナルチームが預かって世界で戦うという図式が今大きく揺らいでいる。企業チームの存続が危ぶまれ、選手もコーチも来年の給料がどこから出るのか不安で仕方ない。企業チームとナショナルチームの関係も話し合いがつかぬまま、技術指導型のナショナルチームコーチは自分がどこまで口を出していいのか迷っている。

日本の競技スポーツの多くが似たような状況にある。が、ジャンプはヨーロッパに誇れるだけの伝統もあり、選手は身長では不利でも、才能では決してひけをとっていない。整備の行き届いた立派なジャンプ台もたくさんある。上昇への転換は、空を掴むほど難しいことではない。

ノルウェーの躍進は、示唆に富んでいる。

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