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■vol.173(2003年11月 19日発行)

【杉山 茂】 東京国際女子マラソン短い短い観戦記
【佐藤次郎】 「応援団」でない放送を
【早瀬利之】 宮里藍のプロデビュー戦は1打差の予選落ちでも、女子プロ界に追い風が吹いた
【上村智士郎】 ヴェルディ、V字回復にアルディレスの戦術あり
【岡崎満義】 有森裕子自伝「わたし革命」をすすめる


東京国際女子マラソン短い短い観戦記
(杉山 茂/スポーツプロデューサー)
 住んでいる所に近いから、というだけでの理由で、東京都内をコースとする11月の女子と2月の男子マラソンを、いつも38〜39q地点で見ている。緩い坂の間に2つ3つのカーブがある。
面白いポイントなのだが、ほとんどのレースは、平凡に走り抜けられ、ちょっとだけナマに触れた思いで、たいていは、再びテレビの前に座ることになる。

 ところが、今年の女子(11月16日)は、これ以上ないスペシャル・スポットになった。高橋尚子がエルフィネッシュ・アレムに抜き去られたのが“この場所”だったのである。

 沿道に早くから出ていた近所の人たちは、風のようにトップでゴールへ向かう「Qちゃん」を信じて待っていたようだ。

 私は登り切った坂の頂点にある曲がり角の手前に居たが、アレムが追い上げるというより、高橋の失速で、見る見るうちに差が詰まるシーンを目前にした。クイーンの座というのはこのような崩れ方をするものなのか。レーサーは音を発さないだけに、無気味さ、凄絶さを感じたものだ。マラソンとはこういうものだったのか。

 曲がり角のタイミングでアレムが抜く。伴走のテレビ中継車は、どうしても先行しなければならぬ“嫌な場所”だ。後でテープを見ると案の定、仕方なくいったん後姿のカメラに切り替えている。スタッフの舌打ちが聞こえるようだ。

 もっと大きな悲鳴をあげたのは日本陸上競技連盟だろう。オリンピックの代表選手決定には、いつも、不可解な霧がかかる。アテネを前にした今シーズンは高橋の絶好調情報で、晴ればれとしたなりゆきと思っていたに違いない。これで、来年1月25日の大阪国際、3月14日の名古屋国際が、これまで以上の火ダネになることは間違いない。

 それを避けるには、連盟や周辺の人たちが、私見をバラまき、勝手な見方を公にせぬことだ。
ファンやマスコミへのリップサービスというより各レースの主催者への思惑で、発言することがこれまでに少なくなかった。

 女子マラソンに限らない。年明けから次々と決まるであろう各競技のアテネ・オリンピック代表選手選考経過は総て透明であって欲しい。

 さて、ここからは結果論に過ぎるが―。

 今回のレースを前に高橋は、妙に浮き浮きとしていた。いつも以上の、この陽気さは何なのだろう。不思議に思えた。さらに、スタートからの飛び出し。気温、風向きを考えれば捨て身に等しい。なぜだ?。謎の残るレースといえる―。

 高橋らの後、10分ほど経ったところへアトランタ・オリンピックの女王ファツマ・ロバが姿を見せた。「最近の私は、こんなところよ」とでも云いたげな枯れた走りだった―。

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「応援団」でない放送を
(佐藤次郎/スポーツライター)
 低迷する日本のバレーボールが久々に盛り上がった。五輪出場権のかかる3位以内は逃したものの、W杯での日本女子の健闘はたたえられていい内容だったと思う。まだまだ復活途上ではあるが、久しぶりに明るい見通しがついた大会だったのではないか。
 
 しかし、テレビ中継はいただけなかった。まずアイドルグループの応援団の登場。これはお決まりだが、実際のところ、あれをよしとする視聴者はどのくらいいるのだろうか。視聴率がよかったとしても、それは日本チームの健闘によるものではないのか。純粋にスポーツを楽しみたい人々は、少々うんざりしているだろうと思う。
 
 それはまだいい。それよりも、試合中、ひたすら日本チームを持ち上げ続ける放送そのものに疑問を感じてしまうのだ。
 
 地元開催で放送の内容が日本一辺倒になるのは当たり前だと思われるかもしれない。もちろん視聴者も日本に注目している。しかし、スポーツを伝えるというのはそういうことなのだろうか。主役が日本なのは当然としても、そればかりを賛美し、オーバーな表現で飾るのがスポーツ中継の役割なのだろうか。
 
 会場がチームを後押しして大いに盛り上がるのはいいことだ。だが、幅広く試合を伝えていくメディアの側がそれに同調する必要はない。日本チームのいいところも足りないところも的確に指摘し、相手チームのことも過不足なく伝え、その中で日本の健闘を浮かび上がらせていくのが実況中継のアナウンスというものだろう。それが、最初から最後まで応援団になってしまっている。これではファンもちょっと嫌気がさすのではないか。
 
 先だっての野球の五輪アジア予選もそうだった。トップ選手を集めた日本チームが圧倒的優位に立っているのははっきりしているのに、中継はまるで天下分け目の決戦のように放送し、予想通りに圧勝した日本チームへの大げさな賛辞が連発されていた。とにかく日本代表チームであれば、ひたすら応援団となって持ち上げるというのが最近の風潮なのである。近ごろは、専門家として冷静な分析をするべき解説者までもそれに同調している。嘆かわしいといわねばならない。
 
 もちろんすべてがそうというわけではない。NHKなどのスポーツアナには、まだまだ本来の冷静なアナウンスで我々を楽しませてくれるベテランがいる。型にはまった絶叫などせず、プレーの状況を的確に伝え、合間には取材による詳しい情報も織り交ぜて、視聴者の手助けをしてくれるのだ。それこそがスポーツ中継のアナウンスというものだろう。もちろん、その方がずっと試合を楽しめるのは言うまでもない。
 
 放送席が応援団になる必要などない。アナウンサーがチアリーダーの役目をする必要もない。いい試合、内容の濃いプレーがあって、それを放送席が冷静かつ的確に伝えてさえくれれば、視聴者はちゃんと盛り上がるし、最終的には番組の評価も高まるのだ。
 
 来年はアテネ五輪がある。相変わらず絶叫と日本賛美が幅をきかせるに違いない。が、放送関係者も一度考え直してみたらどうだろうか。真のプロによる、冷静、詳細でわかりやすいアナウンスや解説が、どれほど試合の感動を引き立て、際立たせるかを、だ。

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宮里藍のプロデビュー戦は1打差の予選落ちでも、
女子プロ界に追風が吹いた。
(早瀬利之/作家)
 高校生プロ、宮里藍(18)のプロデビュー戦は1打差で予選落ちした。予選通過者は46位タイの50名までという難関だった。46位(+4)の誰かが一人、+5と崩れれば、+5の8名が、50位タイグループに繰上げされて、予選通過となるところだったが、残念ながら、50位タイグループは存在せず、+5の全員が、予選落ちとなった。

 それにしても、決勝進出者がたったの50名という規定は、なんとなく理解に苦しむ。

 私は、女子プロツアーは余り取材に出かけない。せいぜい、日本女子オープンとかワールドレディースぐらいである。しかし今回は、新人プロ、それもスーパールーキーのプロ転向とあって、俄然、状況は一転した。なにしろカメラマンは45人、取材に見えた報道陣は、中継局のテレビ朝日を除いて119人。女子プロツアーでは記録的なフィーバーである。

 宮里藍の魅力は、平均270ヤードのロングヒッターと、ガッツにある。その上、高校生とは思えぬ明るさと、ギャラリーに対する前向きなスタンスが良い。言葉もはっきりしていて、理論的。そのことは、会見するときの言葉遣いに現れていた。

 予選落ちした後も、チャリティー会場に現れてサイン会に出席したり、テレビ局、共同記者会見、ファンへのサイン会など、全てをこなして、会場を後にした。本人は残念、無念の気持ちだったろうが、終始明るく行動した。感動を与えるプロの誕生である。

 女子プロ界に追風が吹いたと言ってよい。

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ヴェルディ、V字回復にアルディレスの戦術あり
(上村智士郎/フリーランススポーツライター)
 一昨年、昨年、さらには今シーズンの冒頭と、かつての栄光が嘘のように低迷を続け、時にはJ2降格の危機さえ囁かれていたヴェルディが、今や優勝争いの一角を占めている。
 
 急速な上昇気流に乗った最大の要因は、5月以降のJリーグ中断を期に招聘されたアルディレス監督の存在だ。
 
 彼の就任と同時にチームは一気に蘇った。これまで日本で4シーズン、清水と横浜Fマリノスでチームの指揮を執った経験のあるアルディレス監督は「かつての強いヴェルディの復活」を目標のひとつにあげているが、僅かな期間でそれが現実味を帯びてきている。
 
 だが、このところのヴェルディに関する報道を見ていると、必ずしもそのことが高く評価されていない。一部のジャーナリストは否定的でさえある。  問題となっているのが、現在彼がこのチームに課しているサッカーの中身だ。
 
 それは“ボールポゼッション”を強く意識するサッカーである。ボールポゼッションとはボール支配またはボール保持。ボールをキープして相手に渡さないことが、今のヴェルディのサッカーには重要になっているのだ。そのために、長い時間ディフェンスラインでボールを回しながらチャンスと覗い、時には攻撃を中断してまた最終ラインに、というサッカーをしている。こうしたプレーをボゼッションプレーとも言うが、このプレーがどうも一部のサッカーメディア、特にベテランのジャーナリストの皆さんのお好みに合わないらしく、「あたかもボールポゼッションが最終目的であるかのようなサッカーだ」と批判の対象となっているのだ。
 
 今シーズン私が見た試合の中で最もそうした方向性が顕著だったのは、10月19日に柏サッカー場で行われた柏レイソル戦。結局三浦とエムボマのゴールで2−0で勝利したこの試合で、ヴェルディは最終ラインの深い位置でボールを回し続け、ほとんどの時間でボールを支配していた。レイソルがいかにボール奪取を試みても徒労を繰り返すだけのその圧倒的な支配力に、熱狂的な応援で有名なレイソルの応援スタンドが一時呆然となり、スタジアム全体が静寂に包まれるほどだった。この試合についてヴェルディの選手からは「全員が同じ意識の中でサッカーができた」という満足気な声があがっていた。  

 近年の日本のサッカーは、攻守にフォーワードからディフェンスラインまでの距離を短くしてコンパクトな状態を保ち、果敢に相手のボールに挑み、ゴールを狙っていくサッカーを良しとしてきた気がする。そういう意味では、今、アルディレス監督が目指すサッカーはこの傾向に反するものかもしれない。だからと言って批判の対象になるものではないはずだ。
 
 まず、ボールを持っている限り相手に点を奪われることはない。ボール支配を続けて90分のうちの一回でも訪れたチャンスをものにできれば、1−0でその試合に勝利することができるのだ。
 
 実はヴェルディはアルディレス監督になってからも失点の多さに苦しんでいた。一方で得点はリーグトップクラス。そこでアルディレス監督は平均得点が1点減っても良いから失点を減す、という方針を打ち出し、そのためにボールポゼッションをより強く意識したサッカーに傾斜したのだ。もちろん、アルディレスサッカーがゴールを目指していないわけではない。それどころかセカンドステージも12節終了時点での総得点は27ゴールで、16チーム中最も多い。そういう意味でボールをキープし、自分たちのリズムで時間を進め、機を見て相手ゴールに迫るというアルディレス監督の狙いは一応の結果を出していると言っていいだろう。

 「オジー(アルディレス監督呼称)の要求するサッカーはすごく頭を使うし、テクニックもいるし、とても面白いですよ」
 
 ヴェルディの主力選手の一人である三浦はこう話している。

 サッカーというスポーツは、試合に勝利するという目標に到達するために、色々な方法があって、その方法を形にするために様々な考え方、コンセプトがある。それが戦術としてピッチ上で表現されている。もちろんJリーグでも「これはちょっと」というチームや戦術が存在するのも事実だが、基本的にはどれも面白い部分はあるはずだ。アルディレス監督が求めているサッカーもそうしたバリエーションの一つだ。
 
 その中にあって、ヴェルディのボールキープする技術は見事だ。現在のJリーグのレベルで、一方的にボールをキープし続けるだけでも相当のスキルが必要とされるだろうし、そうしたサッカーを短期間で身に付け、具現化している様子を見ると、「ヴェルディはスキルの高い選手が集まっている」と思わずにはいられない。
 
 時には11月8日の浦和戦のように、そうした狙いが完全に崩壊することもあるが、それもサッカー。続く16日の磐田戦では両チーム死力を尽くした激戦に敗れはしたものの、すばらしいサッカーを見せてくれた。今季のヴェルディのサッカーはスタンドに足を運んで見るに値する。

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有森裕子自伝「わたし革命」をすすめる
岡崎満義/ジャーナリスト)
 1996年アトランタ五輪の女子マラソンで、銅メダルを取り、直後のインタビューで「はじめて自分をほめてあげたいと思います」という、印象深いコメント出した有森裕子さんの自伝「わたし革命」(岩波書店)が刊行されたので、早速、読んでみた。

 中々読みごたえのある自伝だ。これほど率直、的確に、自分の内心と周囲の人間関係を語れるアスリートは少ないだろう。ます、彼女の正直さ、誠実さ、そして表現力に感心した。

 1992年バルセロナ五輪で、彼女は金メダルのエゴロワ(ロシア)と死闘をくりひろげ、銀メダルに輝いたのだが、そのときエゴロワが「これで、7家族20人の親戚が食べていくことができる。それがとても嬉しい」と語ったことにショックを受ける。

 それにひきかえ自分は「金銭的なことと同時に、メダルをとった後の人生で、何か大きく変わったわけでもなかった。単に『特別』、いや『孤立』という状態になっただけで、それによって変わったものはほとんどなかった」―なぜ、日本のわたしはそうなのか、と疑問をもったことから、彼女はプロのアスリートとして自立の道を模索しはじめるのだ。

 「スポーツ選手が団体や指導者に服従するのではなく、より自立した立場から意見を述べることはできないものか。メダルをとった世界的に通用するアスリートが、メダル後の人生を、より充実して生きるために何をしていけばいいのか。選手が監督や組織に追従するのでなく、一人の人間として自立し、納得してやっていくにはどうしたらいいのか」

 そこから彼女はプロ・アスリートとなり、2002年国連人口基金親善大使、スポーツNPO「ハート・オブ・ゴールド」設立、スポーツマネジメント会社ライツを設立、2003年国際陸連の女性委員となり、目覚しい活動をつづけることになる。

 有森さんはJOC「がんばれ!ニッポン!」に一括管理されていた肖像権を、はっきり自分の手に取り戻して、プロとしての自立の基盤を確立したこと、「わたしはゲイです」と公表したガブリエルさんと結婚したこと―この二つをどう書くかと注目していたが、まことにストレートに、正直に書かれていて感心した。

 スポーツに打ち込み、長くスポーツと関わっていきたい、という若い人にはぜひ読んで欲しい本だ。

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