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■vol.177(2003年12月10日発行)

【杉山 茂】 新しさと焦りにさまよう?ラグビー
【高田実彦】 アテネに最強チームを送るべき “日本ファン”に感動のゲームを
【中村敏雄】 変動期に考えること 



新しさと焦りにさまよう?ラグビー
(杉山 茂/スポーツプロデューサー)

 90年代の、あの超満員とまではいかなかったが「早明ラグビー」に50000人の大観衆が集まった(12月7日・国立競技場)。

 今シーズンの両大学の試合ぶりからすれば、空席がのぞいても、と思われたが、さすがに“伝統の”、である。

 だが、ラグビーの試合場も変った。これは今回が初めてではないが、入口には、両大学のファンを意識的に分けるような観客席の案内がある。そして応援団の交歓、チアガールのパフォーマンス‥。

 このような“仕込み”は、ラグビーには不釣り合い、不必要、と言われてきたものだ。
旧態を守るばかりでは、ほかのスポーツやエンターテイメントに追い抜かれてしまう、そこへ少子化による愛好者の減少が重なった。

 新しさというより、焦りから掘り出した活路の1つでもある。

 ニュアンスは異なるが、頂点強化と極上の攻防を見せる狙いからスタートさせた「トップリーグ」も、この一環にある。

 大学と「トップ」の“両立”が、どのように進むかは、今シーズンの大きな興味だったが、ファンの関心を観客数で測ると、学生(特に関東対抗戦グループ)のほうに勢いがある。まだまだ、ラグビーは、内容の高さよりも、学生の熱気が健在といえる。こうしたスポーツは、今や、駅伝など数えるほどだ。

 といって、大学ラグビーが、水準の低い展開に終始していては、いずれ、ファンは「トップ」へ向かい出す。

 大観衆の熱狂に囲まれた「早明戦」も、一方のチームに肩入れしていなければ、見つづけるのが辛い80分間だった。

 「トップリーグ」の人気が定着せぬうちに、学生ラグビーの大看板が、このような内容をつづけていると、ラグビーそのものへの関心が、さらに地盤沈下してしまうのではないか。私の期待は“共存”だ。

 気になることが、この日、もう1つあった。試合前に「ラグビーは、フェアプレーとノーサイドの精神を伝統としています。(この理念に則った)プレーの妨げとなる応援はご遠慮願います」という場内アナウンスが流されたのだ。

 失笑がもれるかと思ったが、意外にも小さな拍手が起きた。

 郷愁に取りつかれているのではない。新しさ、の名分のもとに、様相が変ってしまうことへの懸念がファンの胸の中にひそんでいるのだ。

 選手の技術、ファンのマナーも含めて総て“ラグビーのよさ”が受け継がれて、共存も果たせられるのではないか−。

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アテネに最強チームを送るべき
“日本ファン”に感動のゲームを
(高田 実彦/スポーツジャーナリスト)

 プロ野球オーナー会議は、来年8月に開かれるアテネ五輪の野球日本代表チームに出す選手を「12球団とも1チーム2人ずつ」と決めているが、この決定は撤回すべきである。そういう“数合わせ”の平等主義では強いチームがつくれないばかりか、“日本ファン”から感動のゲームを奪うからだ。

 アジア予選の長嶋ジャパンは、長嶋監督を中心に1チーム何人などのワクのない立場で最強に近いチームを編成して出て行った。それでも強い韓国にはやっと勝っただけだった。そのチームをわざわざ“弱小チーム”につくりかえて行け、というのだから、日本野球界のトップ連中はなにを考えているのだろか。

 「1チーム2人ずつ」という制限は、五輪のために選手を供出する期間がペナントレースの最中(壮行試合が7月13・14日、決勝が8月25日)だから、この1ヵ月半の「痛みを平等に」ということなのだ。

 先の予選では、たとえば巨人から上原、木佐貫、高橋由、二岡、中日から岩瀬、谷繁、井端、福留のそれぞれ4人が出ていた。しかし、西武は五輪本番では許と張の両台湾選手が母国チームに加わるから、松坂をだしたら投手がいなくなる、といっている。巨人、中日にしても4人をそっくり出したらチームがガタガタになる。たしかにプロ側にとっては頭の痛い問題だ。

 だから、これは「野球界という見地」から“最強チーム”か“適当なチーム”かの判断が問われている。いまは適当の路線を進んでいる。「1チーム2人」というのは、ペナントレースと五輪の両方にいい顔をしてみせる、いわゆる“お為ごかし”(やってるよのポーズを見せる)だ。

 日本は最強のチームで行くべきであると思う。理由は、ファンが“適当なチーム”で敗れることを望んでいないからだ。適当で行くならプロ野球を加えなくてもいいだろうという話にもなり、“最強チームの必死な戦い”を見たいと思っている。それを見せられるチャンスを、野球界みずからが潰してはいけない。五輪や国際試合は、野球ファンのみならず“日本ファン”に感動を与えているイベントになっていることを認識すべきだ。

 また、それが日本の野球の将来にとって有効なことだと思われる。

 いまプロ野球人気はじり貧である。今年の観客動員数は両リーグとも若干伸びている(セが+2.1%、パが+4.8%)ものの、セは阪神以外はすべて減少、パはなぜかオリックスが大幅にのばしたのとダイエーの奮闘の結果だった。むしろ注目すべきは、大多数のファンの動向を示すテレビの視聴率である。テレビ視聴率の年間トップ・スリーは、なんとあのアジア予選だったのだ。これは"感動"の勝利といっていいだろう。

 ペナントレースや日本シリーズに感動がないとはいえないが、ファンは絶えず新しい感動を求めているのだ。毎年のことならともかく4年に一度のことではないか。そういう積み重ねがプロ野球人気につながっていく。

 大リーガーを加えなかったアメリカはメキシコに負けて出場を逃した。日本が「1チーム2人」で出て行って本大会で手痛い敗戦を味わうことになったら、“日本ファン”は胸を痛くするだろう。その深い失望感が一層野球離れにつながっていくことを、野球界のリーダーはきっちりと知るべきだと思う。

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変動期に考えること
(中村敏雄/元広島大学教授)

 格闘技のK−1やPRIDE、ストリート・バスケットボールやフットサルなどの、いま若者たちに人気のある「スポーツ」のほとんどが、短い時は10数秒、長くても10分以内に勝敗が決まるというルールでプレーされている。そういう視点で観ると大相撲の取組みも5秒前後で終わるものが多く、この「スポーツ」は当代風な視座で創られたのかも知れないと思わされる。

 その一方に3時間を越える野球、90分間も立ったり坐ったりするサッカーやラグビー、実質的な競技よりも休んでいる方が多いアメリカンフットボールやバスケットボールなどが面白いという若者もいる。

 さらにいつも同じメンバーで150日も試合しなければその年の勝者が決まらないという種目もあって、それを辛抱強く待っているのが好きという人もいる。おそらくそうしなければ選手の給料が支払えなくなるからで、観衆やファンのためでないことは明らかである。

 しかしそれも19、20世紀の若者はゴマ化せただろうが、オリックス対マリーンズの試合を初めから終わりまで熱心に見てくれるという若者は、21世紀にはもういないだろう。

 リモコンのプッシュの押し方ひとつで世界のスポーツがリアル・タイムで自由に選択、視聴できる時代に、なぜ閑古鳥が鳴いている試合を150回も行わなければならないのか。

 同じことはホッケーやアイスホッケー、陸上競技やソフトボール等にもあらわれていて、明らかに時代の空気は近代スポーツの転換を求めている。別言すれば現代は19、20世紀的なスポーツが、21世紀の気分や雰囲気との間で不協和音を奏ではじめた時代であり、近代スポーツが絶頂期から下降しはじめた兆候が目で見えるようになった時代といってよく、腕ずもうや綱引きからもう一度やりなおそうという気分が息を吹き返している。

 アメリカ史が専門の猿谷要氏によれば、いまアメリカでは「黒人とプエルト・リコとか南米からやってきたラテン系の人口が増えて、(だから相対的に白人のパーセンテージが低下して)アメリカがアメリカであるためにはそういう人たちを受け容れなければならなくなっている」という(「月刊みんぱく」、03年6月号)。

 これとラテンアメリカ市民連合理事、ガブリエラ・レイマス氏が「イラクに駐留している米兵にはヒスパニック(スペイン語系移民やその家族のこと)も多い」(03年10月11日、朝日新聞)という状況報告を重ね合わせると、イラク駐留のアメリカ兵の中には米(英)語のわからない者がかなりいるはずといってよく、これと同じことがこれからアメリカ国内で起こってくると仮定すると、ヒスパニックやラティーノたちがWASPほど優勝劣敗主義者ではなく、また「より速く」主義者でもないとすれば、再びのんびりと3〜4時間かけて野球を楽しむという風景が出現するかも知れず、そうなったときオリンピック・モットーの「より速く、・・・・」主義が継承されないということになる。

 これは近代スポーツが資本主義文化であったということを明瞭に示すものでもあり、またヨーロッパ文化が周辺文化へと移行しはじめた兆候ともいえる。かつて競戯は競技(アスレティック)へと変わった。

 しかし、ドーピングのこれほどの蔓延と滲透はこの文化変革が過ちだったことを明示するものといってよく、その修整のイニシアティヴをとるのは何か、誰かという問題をわれわれにつきつけている。

 歴史家の毛利敏彦氏は、「(近代がつくりあげた)国民国家を越える何を考えるかがいまの課題」と述べ(『環』、03年春)、梅原猛氏も、「もし新しい文明が出てくるとすれば、それに役立つものが東洋あるいは日本の思想の中に隠れているのではないかと考えた」と述べている(「日本人は思想したか」)。

 しかし新型肺炎が流行した時、中国やシンガポール等から帰ってきたのは日本という国民国家であった。おそらくEUでも同じだっただろう。近代を超える対象が国民国家であるとしても、それをどこから突き崩すのかは容易ではなく、綱引きの人数を増やすくらいで文化変革は起こらないのである。

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