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100号記念メッセージ

■vol.125 (2002年12月11日発行)

【師岡亮子】<<スキーの季節がやってきた>> ミラクルワーカー 〜ノルウェーの変身〜
【早瀬利之】ゴルフ日本シリーズのあり方を問う
【今城力夫】スポーツ選手の肖像権とスポーツ団体の権利
【杉山 茂】アメリカの月曜夜を変えた男逝く


<<スキーの季節がやってきた 五輪後のシーズンが始まったスキージャンプ その1>>
◇ミラクルワーカー 〜ノルウェーの変身〜
(師岡亮子/スポーツライター)

スキージャンプのW杯が11月29日に始まった。

ここ数年の雪不足に懲りた国際スキー連盟は、今年は北緯66度、ほぼ北極圏にあるフィンランドのスキーリゾート、クーサモでノルディック3種目を同時開催した。ところが、今度は寒波の直撃を受け、−25℃を下回る苛酷な条件下の大会となった。クロスカントリーは肺への影響を考慮して、−20℃以下は中止となる。−18℃という怪しげな発表とともに強行された試合では、超低温でスキーが滑らず、顔や手が凍傷になる選手が続出した。

ジャンプは、長野五輪シーズンの総合チャンピオン、スロベニアのペテルカが4年ぶりに勝利をあげる波乱の開幕戦となった。ペテルカの復活もさることながら、今、ジャンプの世界で話題をさらっている人物がいる。今年5月にノルウェーのヘッドコーチに就任したミカ・コヨンコスキだ。

ジャンプの祖国ノルウェーは、94年のリレハンメル五輪で金銀計3個のメダルを手にした後、競技力が急低下し、ついにソルトレーク五輪では、国際レベルの選手が4人しかいない韓国にまで抜かれて、団体戦で9位と惨敗した。日本の「低迷」とはまたレベルの違う、どん底だった。

昨季、ノルウェー選手のW杯ランキングは最高でも35位。W杯では2本目に一人も進めない試合が続いた。しかし、夏の試合から様相が変わった。

そして、開幕戦では、まったくの無名選手、ジークルード・ペテルセンが0.1ポイントで表彰台を逃す4位に入った。そして地元トロンヘイムで行われた第3戦では僅差の2位、そして第4戦ではついに優勝。ほぼ5年ぶりにノルウェーに勝利をもたらした。4戦を終えた時点で、なんとランキングはトップ。そればかりか、第4戦は、地元とはいえ、15位以内に5人ものノルウェー選手が入った。

関係者は皆、今季のノルウェーの躍進は予期していた。「優勝請負人」「ミラクルワーカー」ミカ・コヨンコスキがノルウェーに乗り込んだからだ。しかし、ここまでの劇的な変化は予想を超えていた。

フィンランド人のコヨンコスキは40歳。現役時代には国際舞台での活躍は皆無といっていい。しかし、長野五輪前にスキー大国オーストリアのヘッドコーチになった頃から、コーチとして名声を馳せるようになる。ジャンプ選手は体重が軽くなくては、と食事制限を積極的に始めたのも彼だった。

オーストリアで成功を収め、99年春に母国フィンランドのヘッドコーチに就任。アホネン以外は2本目に進むのもやっとだったフィンランドが、99年11月の開幕戦では地元の利を生かして18歳のハウタマキが3位、第2戦では無名のカンテが優勝。第3戦では10位以内に4人も入るという大躍進を見せた。

フィンランドは常に複数が表彰台争いにからみ、圧倒的な差で国別優勝を果たす強豪に返り咲いた。そしてこの春、ますます名をあげたコヨンコスキは、オーストリアとノルウェーから熱烈なラブコールを送られた末、「より大きなチャレンジを求めて」ノルウェー・ヘッドコーチ職を選んだ。

開幕前の練習日、ノルウェーに行ってみて、何が問題だと思ったかを尋ねると、いつもの彼らしく率直で明瞭な答えが返ってきた。問題点は3つ。フィジカルトレーニングの質、踏み切り技術の欠陥、用具(特にスキー)の選択ミス。自分のテクニックを生かすマテリアルの選び方をわかっていないことには、愕然としたそうだ。

ただ、3年間も世界から置いていかれていた選手たちなのに、非常に意欲的なのにも驚いたという。能力はあった、ただその生かし方がうまくなかっただけで、私は何も「矯正」した訳ではない。少しばかり交通整理をしただけだと言う。

去年、日本チームは筋力トレーニングを重視した。ポーランドのマリシュに追いつくには筋力アップが不可欠、世界の流れも筋トレだと判断した。去年の11月、フィンランドも同じかと尋ねた時には、半ば呆れ顔で言われたものだ。「アスリートなのだから、筋力トレーニングは当たり前。そんなのは土台の土台だ」

コヨンコスキは、踏み切りのテクニックの数値分析に熱心なことでも知られる。フィンランドでは、研究者たちと共同で踏み切り時の筋肉部位の使われ方や、何がどうなった時が一番効率の良い踏み切りになるのかの分析を続けた。

ノルウェーは日本同様、去年は筋力トレーニング中心の合宿を繰り返した。コヨンコスキはこれを、彼の信じる踏み切り技術に必要なものだけ重点的に鍛えるよう変更した。量を減らして質を高めたという。

そして、「複雑すぎて今ここで説明なんかできないよ」と笑いながらも、一言で言うならば、ノルウェーのジャンプは「点」で踏み切る傾向があったが、これを長い動きをするように変えているのだとも語った。ただ、これは新しい考え方でも何でもなく、もちろん、日本でも同じことを指導している。

しかし、コヨンコスキの場合は、客観的データに基づいて「理想のジャンプ」を示し、そこへ最も早く到達するための筋肉を作る無駄のないトレーニングをさせ、同時に徹底的に動きを覚えさせる。論理的に説明され、数字で示されるので、選手はついて行きやすかったのだろう。

また、ノルディック大国ノルウェーの複雑なシステムを単純化する改革も行った。広い国土に散らばっていたジャンプの拠点を、オスロとトロンヘイムの二つに整理。全国から選手を集めてナショナルチーム選抜合宿をし、選ばれた選手はどちらかに住まわせる。コヨンコスキの考え方を完全に理解しているアシスタントコーチを2人選び、2つの拠点で選手たちを指導する。

ナショナルチーム合宿は毎月第2週と決め、それ以外は拠点でアシスタントとトレーニング。ただし、常に同じ指導が受けられることは、徹底した。

それというのも、コヨンコスキ自身は、フィンランドのクオピオに今でも住んでいるからだ。彼はクオピオの市議会議員でもある。

ノルウェーは情報過多で、他国の動向を気にかけて右往左往していた。だから選手が戸惑っていただけ。今季は10位以内に1人、20位以内に2人を目標にしている。

あまり早く結果が出すぎると、その後の落ち込みが怖いんだ、と言いながらも、「ジークルード・ペテルセンがとても良い。いろいろと変えたからまだ不安定だけれど、確率が上がってきたし、大ジャンプが出るよ」と穏やかな笑みを浮かべて、コヨンコスキは−25℃のジャンプ台に向かった。

第4戦であれよあれよという間に優勝してしまったペテルセンは、テレビインタビューで「何もかも、コヨンコスキ・コーチのおかげ。僕はただ言われるとおりにしてきただけ」と夢見心地で語った。

冷静な判断力、旺盛な研究欲、強力なリーダーシップ、そして、的確な言葉で伝えられるコミュニケーション能力。優秀な指導者に共通する資質をコヨンコスキは持ち合わせている。

さらに、もともと無理な心理状況での極度の集中力を必要とし、一瞬で終わってしまうために「感覚」に属する部分も大きい競技だけに、「君の踏み切りは○○が理想の○%しかできていないから、飛距離が出ない。このトレーニングを何セットすれば必ず良くなる」と具体的に示して選手に安心感を与えた。

これがミカ・コヨンコスキの成功の秘訣だろう。

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◇ゴルフ日本シリーズのあり方を問う
(早瀬利之/作家)

今年で39回目を数える日本シリーズJTカップは、2位のジャンボに6打差でスタートした片山晋呉の完全逃げ切りに終った。

追うジャンボはダークデイ(曇天)に敗れた。敗因は視力の衰えにあった。

最終日スタートホールのティーショット後、片山はジャンボに話しかけたが、そのジャンボに諦めさせる心理作戦も成功だった。スタート3ホールでバーディーが取れなかった時点で、勝負が決まったようなものだった。追い上げなしと、片山は楽に戦っていた。

20名の参加で行われた今年の日本シリーズは、いわば今年の最終戦。野球の日本シリーズにヒントを得て、その年のベストプレーヤーのみで戦う日本一を決める公式戦であるが、同時に賞金王を決定する大会でもある。

残念ながら、出場資格のある谷口徹と佐藤信人の2人は事情があって欠場したが、主催者側の意図する日本一を決める大会としては、その性格に、陰りが見えてきた。本来の日本シリーズとしてのお祭りを演出すべき時代になったと指摘する声もある。

もともと、野球の日本シリーズにちなんで、前半2日間は大阪よみうりCCで、後半2日間は東京よみうりCCと、舞台を2ヶ所に分けて行われていた。

ところが、選手たちの間から、途中の移動が大変ということで、1ヶ所で4日間、72ホールに変った。これは、大阪のゴルフファンを見捨てる結果になっている。この変更は選手のわがままからそうなったものである。

イベントだから、他のトーナメント同様ではなく、原点に戻って、関西・関東の2場所に変えてみてはどうだろうか。

大会も、水・木の2日間を大阪で、金曜日は練習日、土・日を後半戦とすることで、選手たちも前半と後半で戦う気持ちが変ってくる。移動が大変と言うが、予選なしで全員が賞金をもらえる唯一の大会。それに、今では大阪・東京間は2時間半で移動できる。グリーン車で移動すれば、疲れも少ない。

報道する側も大阪の記者から東京の記者にバトンタッチされるので、報道する側にも新鮮味がある。これこそ日本のスポーツ文化だと私は思う。

この頃のトーナメントは、何でもアメリカ流となっていて、面白くない。ロールケーキを喰わされている様なもので、味は均一。やはり、個性的な、日本土着のトーナメントが望まれる。

それには、原点であるその年の優勝者のみの出場資格とすることがファンにもうれしい。優勝できないプロは切り捨てた方がよい。日本シリーズに出たければ、優勝して、出場資格を獲ることではないだろうか。

主催者はもっと強腰になるべし。

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◇スポーツ選手の肖像権とスポーツ団体の権利
(今城力夫/フォトジャーナリスト)

近年、日本のプロスポーツ熱も、国内の野球やゴルフだけでなく、海外のサッカー、メジャー・リーグ・ベースボール(MLB)、米国のバスケットボール(NBA)なども人気となり、テレビ中継されるものも増えて、身近になってきたことは嬉しい。

しかし、人気上昇に伴い、選手やスポーツ団体の肖像権を含んだ権利主張も昔と比べると随分厳しくなったように感じる。報道関係は、原則として、報道を目的として取材が許されているわけで、取材した写真を許可なく営利目的で使用することは出来ない。勿論、特定の広告などに勝手に選手の写真を使用することは許されないのは当然だが、写真展であっても入場料を頂いたり、又、企業などにスポンサーになってもらった状態で開催することは難しい。

MLBやNBA、或いはサッカーの協会などは特に厳しく、協会や大会自身が選手の肖像権やリーグの権利を管理しており、その中で個々の選手が更に企業とユニフォームや道具に関する契約をしているケースも多く、それがことを一層難しくしている。

以前に、企業スポンサーに必要経費を負担してもらい、入場無料のスポーツ写真展を企画したことがあったが、その際に、あるスポーツ団体から要求された権利金は日本円にして数千万円とのことで、企画を断念せざるを得なかった。また、何年か前のことになるが、アメリカの新聞・ニューヨークタイムズがホームページで掲載した自社取材のバスケットボールの写真を希望者に安価で販売をしていたが、NBAはそれを不服として同紙を相手取って訴訟を起こしたことがあった。NBAの主張は「取材許可は報道目的のみに出されたもの」とのことであった。

有名選手は個人的な契約を特定企業としている場合が多いが、契約関係にある社であっても、試合中の写真を広告に使用するなら、英国サッカーのプレミア・リーグのように本人のみならず所属チームとリーグからの事前許可の下に、その為の写真家を出さねばならない。しかし、そのような許可を取るのはなかなか難しいとのことだ。

タイガー・ウッズは報道カメラマンをあまり好ましく思っていないようで、「君らは人の写真を撮って金儲けをしている」と試合中にカメラマンに嫌みを言ったことがあった、とニューヨークにいる仲間から聞かされたことがあった。

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◇アメリカの月曜夜を変えた男逝く
(杉山 茂/スポーツプロデューサー)

「テレビは、熱狂的なファンだけではなく、スポーツに無関心な人を獲得するため、総ての制作技術を駆使すべきだ。」
 「これまでテレビは、スポーツを視聴者に届けるという仕事をしてきた。これからは、視聴者を試合場に連れて行くのだ。」―――

テレビ・スポーツ界にいる私がいつも中継制作の理念として胸の中に納めつづけてきた言葉だ。1960年代初め、アメリカの最大手テレビ局の1つ・ABCの名スポーツプロデューサー、ルーン・P・アーリッジさんが語ったもので、彼は、その"実現"のために、次々と素晴らしい手を打ち、アメリカ全土を熱狂させるビッグヒットを飛ばした。そのアーリッジさんが12月5日、ニューヨークで亡くなられたという。71歳だった、とニュースは伝えていた。

アーリッジさんはABCのライバル、NBCのディレクター時代、「ハーイ、ママ」という幼児番組を手がけて、アメリカの優秀なテレビ番組に贈られる「エミー賞」を受け(1959年)、そのあとスポーツ制作へと転じた。

その才覚と手腕が発揮されるのは、1969年、ABCに移ってからで、70年にスタートさせた「マンデーナイト・フットボール」は彼の代表的傑作だ。

その週のプロフットボールリーグで最高のカード1試合を、テレビ(ABC)のために特別に組ませ、主婦を含めたアメリカ国民の月曜夜の過ごし方を変えさせた、と云われた。

スタディアムの上空にヘリコプターや飛行船を飛ばして夜景を伝えながら、クレーンカメラを配し、移動カメラを敷き、スローモーションビデオをふんだんに使って、熱戦やチアリーダーの姿を描いた。棒のさきに小型マイクロフォンをつけ、選手のぶつかり合う音、コーチングスタッフの怒鳴り声なども集めた。

更に、流行の"観戦"ファッションに身を包んだモデルを観客としてスタンドに仕込み、テレビを見る女性たちの目を引きつける。彼は云った、「女性ファンが試合場に足を運ぶのは、プレーを見るだけではない。他人が何を着ているかも、大きな見どころなのだ」。もっとも、カメラを狙って奇抜な姿の女性が増え、やがてABCはこうした風景を写さなくなる。

アメリカでは、限られた視聴者しかいないマイナーなスポーツの寄せ集めと思われていたオリンピックを、アーリッジさんは、ドラマチックに仕立てあげ、話題に事欠かない壮大なスペクタルショウへ"変身"させた。

巨額な制作費も注ぎ込む。1976年インスブルック冬季オリンピックの放送権を得たアーリッジとABCは、20万ドルをかける。その時の日本(NHK)の放送権料は17万8000ドル。彼らの凄まじいパワーが分かる。(注:ABCの放送権料は1450万ドル)。

この「物量」と「マンデーナイト・フットボール」が、私にアーリッジという人への興味と意識を生んだ。

レークプラシド冬季オリンピック(1980年)の打ち合わせなどで"憧れの人"に会うことができたが、総ての行動にエネルギッシュな個性がにじみ出ていた。

私が、憧れをいっそう強くしたのはテレビとスポーツのためなら何でもやってみるぞ、という気迫だった―。

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