先日、日本スポーツ学会主催の「スポーツを語り合う会」で、「大学スポーツ」がテーマになった。東大、早大、慶大、明大、中大の先生・OBがパネリストとなって話は進められた。 今秋の東京6大学野球の早慶戦は、早稲田の優勝がかかっていたにも関わらず、早稲田の外野応援席には早大生はほぼゼロの状態だったと聞いて、大いに驚いた。母校愛などというものは、いまや雲散霧消してしまった、と嘆かれるわけである。母校愛のない大学と大学生とは一体何だろうか、と不思議に思うのだが、それは問題が大きすぎるので、大学スポーツにしぼって考えてみたい。 今回のパネルディスカッションでは、現場の問題点がいくつも出されて、それはそれで面白かったのだが、大学スポーツの理念にまで話が及ばなかったのは残念だった。 近年、プロスポーツ全盛時代を迎えて、大学スポーツの存在感がめっきり薄れてきたように思う。マスコミもあまり取り上げない。 大学スポーツの存在価値、存在理由は何だろう。 昔は、単純に母校愛だけでも大義名分が立ったようだが、その母校愛もすっかり色あせてしまった今、それに代わるものは何なのか。 大学スポーツはプロスポーツの予備軍、技術的には2軍か3軍的存在でしかなくなってしまった。 昔は、大学がアマチュアスポーツの中で中心的な存在であった。企業スポーツが衰退の一途をたどりつつある現在、大学スポーツはさらに独自の輝きを見せてもいいと思うのだが、一向にその気配はない。 しかし、考えてみれば、オリンピックが巨大化し、アマプロがオープン化されて、アマチュアの存在価値がどんどん下落しているのだから、大学スポーツが糸の切れた凧のように、あてどなく吹き流されてしまうのも、無理はないと言えるかもしれない。 オリンピックは、スーパーアスリートたちが最高の技術を見せる、磨きぬかれた自己表現の場であり、それこそがスポーツの最高の価値だと言われるようになった。つまり、技術的に低レベルのアマチュア選手に用はなくなったのだ。そういう技術(=マネー)至上主義が、大手を振ってまかり通ることになった。 スポーツの存在価値は、そういう一元的な技術至上主義だけにあるはずはない。人類が生んだ大切な宝物であるスポーツには、もっと多様な価値があるはずである。 今はオリンピック(=プロ)の価値観を頂点とするピラミッド型のスポーツ体系の中に、大学スポーツをはじめとするアマチュアスポーツは完全に従属し、低位の価値集団として組み込まれているとしか思われない。本当は、アマチュアにはアマチュアの、大学には大学の、独自の価値があっていいはずである。 プロスポーツを「スポーツの蜜」、と呼ぶならば、アマチュア・大学スポーツは「スポーツの塩」、である。地の塩というときの「塩」、である。 最高の技術集団としてのプロスポーツは、当人たちには巨額マネーという甘い蜜を与えてくれ、それを見る者には夢のような感動という蜜を与えてくれる。 少子高齢化時代の大学は、その地域の中核、知的コングロマリットとして存在する以外に、生きのびる道はないように思う。大学の中のスポーツも、いかに地域との結びつきを深めるかである。大学スポーツはキャンパス内に閉じた集団ではなく、地域に開かれた集団として機能しなければならないだろう。時折報じられる大学スポーツ部の不祥事も、密閉集団だからこそ起こる。小学生、中学生、ひいては高齢者たちまでがクラブ員になれるようなスポーツクラブが、大学の中に生まれてほしい。いわば、地域の中の老壮青幼の四結合としての大学スポーツクラブが、イメージ豊かに発想されなくてはならない。早稲田のスポーツがスポーツ用品メーカー「アディダス」と提携するのも、そのような開かれた視点からのものであってほしい。 そのような環境の中で、古い美徳として捨て去られた「母校愛」や「文武両道」に、「地域愛」も加えて、新しい光をあててほしい。地域の中で小学生や定年後の高齢者たちと、どうつきあっていけばいいか。スポーツと生涯つきあっていくライフスタイルを、そこで模索開発してもらいたい。 人生におけるスポーツの塩を求め、もっと言えば、自ら塩になるくらいの気迫がほしい。蜜ばかりで、塩のきかない社会がいかにダメなものであるか、身の回りを見るだけでよく分かる。 比喩的に言うならば、プロスポーツは「私の中の私」を探し、磨く旅であり、アマチュア・大学スポーツは「私の中のみんな」を探し、連帯する旅である。戦前の滅私奉公に懲りて、戦後「公」離れした「私」が、新しい「公」との関係をつくる―アマチュア・大学スポーツの存在価値は、そこにあると思うのだが、どうだろうか。 |