2月になってNHKはテレビ放送50周年記念番組を放映し始めた。 この中にはスポーツ番組もあり、2月5日は解説者に二宮清純氏、司会に岡本、久保アナウンサー、タレントの伊集院光、上原さくらの両氏という構成で、いつものように力道山から始まって栃若の大相撲、若い長嶋、王選手と東洋の魔女から円谷幸吉選手へと、「○○がこのようにありました」式の映像が流され、二宮氏がその解説を行った。 若いタレントを出演させるという事はシビアな討論をしませんという局側の意思表示である。この時の二人もソツなくその役割を果たしていたが、突然そこに意図せざる沈黙の一瞬が出現した。 それは、途中から登場した二人の東洋の魔女に伊集院氏が行った「欧米の選手に比べて体格、体力で劣る日本チームがなぜ勝利したのですか」という問いに「精神力です」と答えたのが原因だった。 その答えは、魔女以外の人たちが全く予想していなかったもので、しかも、シビアな討論をしないという流れと雰囲気に背くものでもあったため、そこに一瞬の絶句、沈黙という状況が出現したのである。 二人の司会者は、ここで「精神力」をめぐる意見交換をするべきかどうか、それがレンズの向うにいる視聴者の、とくに若い人たちの期待に答えるものかどうかなどを瞬時に判断しなければならなかった。 一瞬の後、彼らはさりげなくこれを回避した。それは「精神力」の強弱高低を測定、比較する資料も条件もなく、優勝を争ったソビエトチームの「精神力」が日本チームのそれより弱かったと判断する材料もなかったからである。 恐らく、これについて意見交換すれば、魔女たちの根性主義が明らかになるだけでなく、それを今も講演等で説いているであろうことの意図、意味、反応なども話題になるという判断もあったであろう。 考えてみると、これは魔女たちが金メダルをぶら下げたまま引退したことと関係があるように思われる。 別言すれば、彼女らはこれ以後に敗戦経験がなく、それがその他の敗戦経験を持つ選手、例えば、荻原健司、堀井学、伊達公子などの選手と、考え方や態度の相異を生む原因ではないかと思われる。それを荻原選手は、「清水選手がクールといわれるのは、いつも自分の内面と向き合っているからだろう」と述べている。 東洋の魔女はわが国が経済大国へ登り始めていく時の国民総合のシンボルとして利用された。そのために「精神力」と答えなければならなかったのだろうが、それが今は人びとを沈黙させる役割を持ち始めている。 このギャップに気付くことはないのかも知れないが・・・。 |