<篠竹監督が退任 日大アメフト学生王者に17度>−3月31日付の朝日新聞夕刊は、そう報じていた。 日大アメリカンフットボール部の篠竹幹夫監督は、大学側が体育会系運動部監督に導入した「70歳定年制」の適用により、3月31日付で退任が決まった。 正直、この記事を目にした私は「ついにやったか!」と思った。なぜならば、篠竹監督は“名物監督”“カリスマ指揮官”として知られていたが、同時に38運動部からなる日大体育会系運動部の“恥部”ともいわれていたからだ。 3年前に大学側が「70歳定年制」を導入したのも、昨年8月に亡くなった日大ゴルフ部の竹田昭夫監督と篠竹監督を一刻も早く退任に追い込むためのものだったという。そう大学関係者は囁いていた。 かつて私は、竹田監督と篠竹監督をインタビューしているが、たしかに両氏には名物監督、カリスマ指揮官の心意気を感じた。亡くなった竹田監督はともかく、篠竹監督は私を前に高笑いでいったものだ。 「昭和30年頃だ。私は“オール日大不死クラブ”を結成し、進駐軍のチームと戦っていた。試合前には“君が代”を歌い、水盃してな。要するに日本人のプライドを賭け、大男たちを相手にした。その大男たちを相手にいかに勝つか。それで私が考え出したのが“ショットガン・フォーメーション”だ。進駐軍の連中はいっていたな。『篠竹はアメフトをハンドボールにした』って。アハハ・・・」 「アメフトは人類最後のスポーツ、世界最大の格闘技。いや格闘技というより、小規模な戦争といったほうがいいな。野球も格闘技?そんなバカな。そういう者がいたらヘソで茶を沸かしてやるよ。アハハ・・・」 私が篠竹監督をインタビューしたのは89年。当時の日大アメフト部は、いわゆる全盛時代だった。関東大学選手権(パルサーボウル)、大学王座決定戦(甲子園ボウル)、日本選手権(ライスボール)を制し、なんと勝率は脅威の9割2分だった。篠竹監督は、こうも豪語していた。 「ウチの部には特待生制度なんかないから、いい選手はみんな他大学に行く。授業料払え、授業に出ろ、受験に合格しなけりゃ入学させない。そんな調子だから入部してくるのは2流の選手ばかり。つまり、そんな2流選手たちを1流にしてやりたいと思って、徹底的にシゴクんだね。アメフトの基本精神である“犠牲”“協同”“闘争”の精神を柱に、24時間選手たちと寝起きをともにして鍛える。アハハ・・・」 しかし、時は流れ、日大アメフト部が甲子園ボウルを制した90年を最後に日本一から遠ざかるにしたがい、私の耳にはつぎつぎとよからぬ話が聞こえてきた。 ―実は日大アメフト部は学年ごとに25名の特待生枠を持っている。篠竹監督の天皇ぶりに業を煮やした日大系の附属高校アメフト部監督たちは、選手を他大学にやるようになった。生涯独身を通す篠竹監督は、毎晩のように合宿所で選手相手に麻雀をし、連戦戦勝でかなり稼いでいる。文理学部教授である篠竹監督は、体育実技の講義を4年生部員にまかせている―。 その他、活字にはできない噂話もあった。真偽のほどはともかく、そういった情報が飛び交っていたのは事実だった。 「篠竹監督の金銭疑惑が表沙汰になったこともありました。入学後に新入部員に献金を強要したと、退部した部員がマスコミに暴露したんです。2年前にチーム史上初の入れ替え戦に出場したのは、篠竹監督の横暴さに耐えられなくなった部員たちが脱走し、チームが弱体化してしまったため。とにかく、日大アメフト部は、他の部と違って異常でした。選手たちの父母たちが交替でグラウンドに足を運び、フルーツを用意するなど身のまわりを世話していた。監督にゴマをするためでしょう。グラウンドにあるクラブハウスも大学側の許可を得ず、勝手に父母たちが建ててしまった・・・」
とは大学関係者の話。 ともあれ、篠竹監督の退任で名門・日大アメフト部は生き返るか−。 |