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100号記念メッセージ

■vol.148 (2003年5月28日発行)

【杉山 茂】 「日本版スポーツアコード」の実現を
【早瀬利之】 日本のスポーツ文化とお客様第一主義を忘れた日本プロゴルフ選手権
【佐藤次郎】 スポーツマンシップはどこへ行った
【今城力夫】 「大げさ表現とカタカナ語の氾濫」


「日本版スポーツアコード」の実現を
(杉山 茂/スポーツプロデューサー)

「スポーツアコード」(sportaccord)という聞きなれない名の国際会議が、5月12日から6日間マドリード(スペイン)で開かれていた。

2012年夏季オリンピックの開催地に立候補しているマドリードの“事前運動”などと陰の声もあったが、それはともかく、国際スポーツ組織が一堂に会する試みは、悪くない。

アンチドーピングやスポーツとテクノロジ−など、全スポーツ界に共通する課題が次々と押し寄せる現代だ。

次回は来年ローザンヌ(スイス)で開く、とされるが、今後に期待の寄せられる催し、といっていい。

日本でも、こうした企画が実現できぬものか。

それぞれの組織が垣根をつくりあって、「日本のスポーツの成熟」を語り合おうというムードが、まったくない。

問題意識に欠けるのか、といえばけしてそうではない。

手近なところでは「総合型地域スポーツクラブ」。各所で関心が持たれながらバラバラで、いっこうにエネルギーは貯えられない。

流行語のような「スポーツビジネス」も「スポーツとメディア」も「スポーツと指導者」も、組織の性格、目的を超(こ)えて、意見が交換されれば、少しは前が開くだろうに、その気配は感じられない。

日本オリンピック委員会(JOC)が、格闘技、球技などジャンル別のグループを編成し、トレーニングや指導の情報を共用しようとしたのは、けして古いことではない。

中国などでは、とっくにこのシステムを採っていたし、効果をあげていた。

日本体育協会が、各セクションの広報、宣伝活動を“一元化”しようと、本格的な体制を整備したのは、2年ほど前だ。

多範囲な研究を展開していると思われる学会とスポーツ現場の絡み合いも、いっこうに深くならない。

スポーツを名乗る国内のあらゆる組織団体が集結して、日本のスポーツ構造を改革するには、オリンピック、アジア大会、ワールドカップなどスーパーイベントが一休みの状態となっている“今”がチャンスではないか。

協同の前進をスローガンとした「日本版スポーツアコード」の実現を、期待を込めて提言したい―。

(注)sportaccordは国際オリンピック委員会(IOC)、国際スポーツ団体連合、国際ドーピング機構、国際ワールドゲームズ協会、国際マスターズゲームズ協会、夏・冬オリンピック競技団体連合、IOC公認スポーツ団体協会などが一堂に会しての総合国際会議。各機関の理事会や展示会、セミナーなどが開かれ、主要機関代表による合同記者会見(5月15日)も行われた。

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日本のスポーツ文化とお客様第一主義を忘れた日本プロゴルフ選手権
(早瀬利之/作家)

かつて4大公式戦という日本独特のオフィシャルなメジャー戦があった。

日本オープン(10月)、日本プロ選手権(5月)、日本プロマッチプレー(9月)、日本シリーズ(11月)と、日本という名のつくトーナメントで、優勝すると5年から10年のシード権の他に、スポンサートーナメントへの出場資格や欧米のメジャー戦への出場資格など、褒美がついた。

そのために、各選手は、スポンサートーナメントよりも、賞金は低いが記録に残るメジャー戦(公式戦)優勝に燃えた。なかには公式戦となると、他人を足蹴りにしてでも勝ちたいと、早くから準備をたてる選手もいて、エキサイトした。それほど、公式戦に勝つことの意味と夢があった。

ところが、こうした日本文化が、いつのまにかアメリカツアー一辺倒で風化されてしまった。世界のランク制度ができ、ランク50位という目途を立て、それ以内に入ったものはAランクで全てのメジャー戦への出場権が得られる制度である。このランク制度は全世界のツアーを網羅しているが、いつのまにか日本ツアーも迎合してしまい、公式戦の存在価値が薄れた。

しかし、全英オープンは、日本オープン優勝者、日本ツアーランク3位以内の選手に出場権を与えるなど、世界ランクと別のカテゴリーにしている。アメリカで生れた世界ランク一辺倒ではない。

そこで日本ツアー関係者に言いたい。

公式戦の存在は日本独自の文化である。アメリカ一辺倒では、「みんなマクドナルドに行け」というようなもので、ハンバーガー漬けになる。やはり日本文化に根ざしたものを大切にすべきである。

日本プロゴルフ選手権がそのひとつで、この試合に勝つことの意味を、もっと選手にも、欧米ツアー関係者にも知らしめる必要がある。その一例が、同じ名のつく全米プロとか、欧州プロ選手権への出場資格など、提携を持たせることである。

また、これほどの公式戦は、安いチケットで多くの人に観戦させる必要がある。子供のチケットは中学生以下は半額、両親同伴なら無料、なおかつ電車で現地に行けるようなゴルフ場を使用するなど、大衆化対策を優先することである。

今回も、駅からギャラリーバスを出していなかった。知り合いのファンからは「1万円の通し券を買ったが、土浦駅から美浦GCまでタクシー代5000円(片道)を払って見に行くことになり高くついた。PGAに問い合わせたら、節約のためだという返答だった。車が渋滞するので車を避けたが、これでは全て逆行です。何とかなりませんか」との問合せだった。

全主催者は「お客様第一」を考えるべきである。バブル時代の料金を未だに堅持するのもいかがなものか。               

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スポーツマンシップはどこへ行った
(佐藤次郎/スポーツライター)

最近、スポーツの世界におかしな雰囲気がある。

ひとことで言うならば「スポーツマンシップに欠けた行為があまりにも目立つ」ということになるだろうか。おそらくこれは、いまの社会全体の空気を反映したものに違いない。
 
大相撲では、横綱朝青龍の、乱暴かつ礼に欠けた土俵上の態度がファンを悲しませた。伝統行事としての面からも、またスポーツとしての観点からも、あってはならないことと言うしかない。

一方、プロ野球では、近鉄のローズが西武の青木に後ろから体当たりしてけがをさせ、出場停止処分を受けるという出来事があった。どんな状況だったにせよ、試合中に背後から体当たりを食わせるような行為がまかり通るなら、それはもうスポーツの試合ではない。
 
これらはひとつの例に過ぎない。スポーツをスポーツたらしめている暗黙のルールやマナーをないがしろにしているところが、いまのスポーツ界には少なくないのではないか。
 
たとえばガッツポーズだ。これは悪いことではないが、それも時と場合による。

全日本柔道選手権の決勝で、鈴木桂治に一本勝ちした井上康生は、勝負が決まるやいなや、両腕を突き上げる派手なガッツポーズを繰り返した。喜びを表すのはいいとしても、試合後の礼も終わらないうちに、畳に横たわる敗者の横で派手なガッツポーズを連発するのは、少なくともスポーツマンシップに合致する行為とは言いがたい。

「武道にはあるまじきこと」と指摘する声もある。井上が日本のスポーツ界を代表する名選手の一人だけに、これはちょっと残念なシーンだった。

また高校野球では、1本ヒットが出るたびに塁上でガッツポーズを乱発する姿がいやというほど見られる。相手を思いやる心や試合中の最低限の礼儀、また、よけいなことをせずにプレーに集中する競技の心は、いったいどこへ行ってしまったのか。
 
このほか、プロ野球やサッカーでは、プレー中に相手を威嚇するような行為がしばしば見られる。それを闘争心の表れだと評する向きもある。とんでもないことだ。

真剣でハイレベルなプレーこそがプロスポーツの醍醐味なのであって、そんな劇画まがいのシーンはスポーツとは無縁にしておいてもらいたい。
 
ボクシングでは、どんなに激しい戦いが行われようとも、試合後には両者が抱き合って健闘をたたえ合う。終了のゴングが鳴った後もいがみ合うような光景は、まず見られない。

その精神が、殴り合いという暴力と紙一重の行為をスポーツたらしめているのだ。そうして、見ている観衆は、選手が抱き合い、たたえ合うシーンでますますボクシングが好きになるのである。
 
スポーツマンシップという言葉は、あまりに使われ過ぎてすっかり手あかがついた感じになっているが、最近のスポーツ界はそれをもう一回かみしめる必要がある。

そして、スポーツにあるまじき行為の横行は、古くからの市民社会の常識やマナーがどんどん消えていく世情をそのまま反映しているように思える。

いまこそ、スポーツマンシップが社会のゆがみを正す手本になるべきなのだが。

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「大げさ表現とカタカナ語の氾濫」
(今城力夫/フォトジャーナリスト)

作家の赤瀬川隼氏が朝日新聞(5月14日付)のゼロサン時評で、最近のテレビのスポーツ番組などでアナウンサーやキャスターが、選手の技術の「進歩」や「成長」のことを「進化」するという言葉を使い、大げさであると同時に意味も違ってくる、というようなことを指摘されていた。

これを読んで私は少々嬉しくなった。

というのは、私も常々最近のアナウンサーやキャスターの言葉づかいには、不快感を持つ一人だからだ。

赤瀬川氏は松井秀喜とイチローの「対決」というのも、チーム同士やピッチャーとバッターは対決するが、彼らは二人とも外野手であり対決することはなく、不正確だと述べられていた。

大げさで不正確な表現の最近の代表格は「搭載」ではないかと思う。コンピューターなどに何々が搭載などと説明しているが、搭載は大きなエンジンなどが飛行機などに設備されていることを意味する。

スポーツ番組に限ることではないが、最近はやたらにカタカナに置きかえた外来語を多用したり、大げさな表現が多すぎるように、私も思う。

特に外来語(多くは英語だが)には和製英語も多く混在したりして、正しくない表現がいくつもある。

野球のナイターはさすがに使われなくなり、正しい表現の「ナイト・ゲイム」が近年は使われるようになった。

しかし「デッド・ボール」は未だに健在であるが、英語にはこのいい方はないし、同じ意味の単語も熟語もない。投手の投げたボールが当たった(hit by a pitch ball)、と説明しなければならない。

「ビハインド」も最近よく耳にするが、現在一点ビハインドです、などとわざわざ英語の単語を使う必要もないような気がする。

困ったことには英語で外国人と話をするときに、日本語化しているカタカナ英語を使うと、全く通じないことだ。

随分前のことになるが、元巨人軍のウォーレン・クロマティ選手を外国特派員協会の昼食会に招いた際に、彼がスピーチの中で「日本人はシュートなんておかしな発音で英語を使うから、首都高速道路かと思った」と茶化していたことがあった。

尤もこの語を含めて、外国語を正しい発音通りにカタカナで表現することはとても出来ないし、我々日本人はどうも外国語の発音には向いていないようだ。

最近サッカーの試合中継を聞いていると、得点の際にアナウンサーが「ゲットーーーーーーーー」と大声で長々と叫んでいることがよくある。

ナチス・ドイツ時代のゲットーでもあるまいに、と思っていたが、「ゲットする」(実際にゲットとは発音しないが)は一般の人達の間でも普通に使われているようだ。

外国語を使うと“かっこいい”と感じるのだろうが、私自身は日本語の語彙不足を外国語で逃げていることもあり、反省もしている。

最近のカタカナ表記の違いでは、今年のマスターズの優勝者“ウィア氏”を在京の大新聞でさえ“ウエア”と表記してあったりして、驚いた。

スポーツには関係ないが、暫く前の朝のテレビ番組で生け花の話の途中、「それではこれからライブでやって頂きます」とキャスターが言っていた。

また、ラジオ番組で古本屋からの生中継を聞いていたら、「本の題名にスウェターと書いてありますが、昔はセーターをこう言ったのですかね」とのリポートだった。

実は“スウェター”がより正しい発音であるにも拘わらず。

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