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100号記念メッセージ
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■vol.155(2003年7月16日発行)

【杉山 茂】 54年の歴史に幕閉じた「5大都市体育大会」
【早瀬利之】 賞金値上げは必ずしも名勝負にならず
【佐藤次郎】 ミラクルに学べ
【岡崎満義】 小鶴誠さんとバッティングセンター


54年の歴史に幕閉じた「5大都市体育大会」
(杉山 茂/スポーツプロデューサー)

1950年から続いていた「5大都市体育大会」が、7月12、13の両日京都市内で行われた大会を最後に、54年の歴史に幕を降ろした。

大会は、神戸、大阪、京都、名古屋、横浜の代表によって、各市の社会人アスリートの競技力向上を目的に毎年、各市持ち回りで開かれてきた(95年は阪神・淡路大震災で休会)。

それが、突然ともうつる廃会となったのは、各自治体の厳しい財政状況によるものだ。

同じ理由による企業スポーツ活動の撤退や縮小の話題は耳慣れてしまったが、政令5都市による総合競技会までも、ピリオドが打たれてしまうと、日本スポーツ界を支える基盤のぜい弱さに、改めて“危機”を感じる。

関係者によると、開催地の場合、約4800万円、代表を派遣する他の4都市は各1000〜1500万円の費用がかかったとされる。

春ごろ、休会あるいは廃会の動きがあることを知ったが、そのあと、表面化せず、持ち直したかと思えたが、6月に「今回限り」を決めたという。

各市とも、いわゆるトップクラスを除いて代表(チーム、個人)を編成し、マスコミの関心も高いものではなく、一方、当事者の間には、5都市だけで競技する意義が問いかけられるようになっていたのも事実だ。

だが、予選を兼ねた市民スポーツ祭など“市レベル”の競技会が、裾野のように築かれるなど、各競技の全日本選手権や国民体育大会の予選とは異なったカラーを打ち出していた。5都市地域スポーツクラブ対抗などへの夢も描けた。

参加都市の“拡張”が検討された時期もあったが、規模の拡大は好ましくない、として、“原点”が守られてきた。

競技数は、発足当初の8競技から、近年は20競技に増え、参加者も2000人近くにふくらんだ。負担増を和らげるため、3年前から、大会期間をそれまでの3日間から2日間に短縮し、今回も第1日の競技を終わったあとで、総合開会式を行うなど、運営に工夫をこらした。

それでも、財政難を乗り越えられず、終幕となったのは、自治体主体の多くのスポーツ大会に、少なからず影響を与えるのでは、と気になる。

日本体育協会が、国民体育大会の適正規模を求めて、さまざまな検討を進めているもの、自治体の財政事情が最大因だ。

いかに、時の流れとはいえ「スポーツ」が、ぼう然とそのうねりにのみこまれるだけでよいのか、は、改めて「5大都市体育大会」の廃止をきっかけに、考えなければいけないテーマである。

「自立」のかけ声も大きいが、さて、それをどのような行動で、となると、策もたてられず時日が過ぎていくのが、現実の姿ではないか―。

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賞金値上げは必ずしも名勝負にならず
(早瀬利之/作家)

今、私は全英オープン会場に来ている。 全英オープンは今年で132回目である。

賞金総額は昨年大会(シニアフィールド)よりも10万ポンド増えて、390万ポンド(約7億8,000万円)になった。

しかし、優勝賞金は昨年と同じ70万ポンド(約1億4,000万円)とした。ただし、2位以下70位迄が賞金アップした。

一例が2位40万円を今年は42万円に、70位は8,500ポンドから8,700ポンドに値上げした。

また、予選カットされた選手にも、従来どおり支払われている。例えば1打のミスで予選落ちした71位の人には3,000ポンド(70位は8,700ポンド)が支払われる。

もっとスコアの悪い156位の選手には2,000ポンド(40万円)が支払われる。日本からエコノミーの航空運賃でロンドンにきた選手にとっては赤字になるが、地元の選手にしてみれば、結構な収入になる。

今回は初めて、上位からうすく、というより据置きし、裾に厚くした。今後のイベントのあり方として注目される。

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ミラクルに学べ
(佐藤次郎/スポーツライター)

スポーツに関する最近のニュースで、これはもう感服するしかないという出来事がひとつあった。あの「ミラクルの2億円」のことである。

JRAのGTレース「宝塚記念」で、勝ったヒシミラクルの単勝馬券によって、実に1億9900万円余を手にした人物がいたという話は、このところの呑み屋の話題を独占している。東京・新橋の場外馬券売り場で、ヒシミラクルの単勝を1222万円も買った男性がいたというのである。

スポーツ紙などの報道によれば、この男性は、まずダービーでネオユニヴァースの単勝を買い、その儲けで次には安田記念のアグネスデジタルの単勝を買い、さらにそれを宝塚記念にそっくりつぎ込んだ可能性が強いという。

つまり、ファンがこぞって注目する6月のビッグレースで、単勝の儲けを次々にころがして、ついに夢の2億円を実現したらしいというのだ。

この話は、単なるギャンブルの大儲けとはちょっと違うように思える。

競馬というスポーツをよくわかっている人物が、みごとな読みを働かせたという感じがあるからだ。2番人気の中心馬だったネオユニヴァースはともかく、安田記念のアグネスデジタルは4番人気、宝塚記念のヒシミラクルは6番人気の馬だった。

2レースともに、実績の割に人気薄だが、確固たる実力を秘めた馬をきっちりと狙って的中させているのである。語呂合わせや数字合わせでたまたま当てた大穴などとはわけが違うと言わねばなるまい。

この人物は、競走馬を単なる賭けのサイコロとしてではなく、レースに臨むトップアスリートとして見たに違いない。その結果、表面的な人気や派手さ、あるいは根拠薄弱な一発狙いなどを排して、大一番で十分に力を発揮する可能性が最も高い存在を選び出したのだろう。

そして、こうと決めたものにすべてを託した。これはもう、それ自体が鮮やかな名勝負、最高のパフォーマンスと言ってもいいのではないか。

どんな人物なのかは、もちろんわからない。裏には思いもよらない事情があるのかもしれない。ただ、この話には、単なる賭事の幸運という以上の爽快感がある。まるでスポーツの名場面のような、考え抜いた末の真っ向勝負という観があるからだ。

ひるがえって最近のスポーツ界を見ると、これほどに爽快な感じを味わわせてくれたものは見あたらない。スポーツ・ブームは依然として続いているが、注目度や派手な宣伝の割に、これはとうならせてくれるようなパフォーマンスは出てこないのだ。

ここはひとつ、あのミラクルを大いに見習ってほしい。

あくまで正攻法に徹し、作戦を考え抜いて、しかるのちに思い切って潔い勝負に出れば、思わぬ道が開けるかもしれないのである。上位の壁を前に、最初からあきらめている選手やチームには、ぜひともそんな戦いを試みてほしい。

しょせんギャンブルと見る向きもあるだろうが、そこにはどの世界にも通じる教訓が隠れている。

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小鶴誠さんとバッティングセンター
(岡崎満義/ジャーナリスト)

むかし「松竹ロビンス」というかわいらしいチーム名をもった、プロ野球の球団があった。

昭和25年、セ・パ両リーグに分裂した年、セ・リーグ優勝したのが、その松竹ロビンスだった。監督は後にラジオ・テレビの名解説者となり「なんと申しましょうか…」と独特の飄々とした語り口で“小西節”といわれた小西得郎さん。

球界きっての洒落た遊び人、とうらやましがられた小西さんは「老いらくの恋も忘れて球遊び」という優雅な一句を残している。

そのチームの中心が“神主打法”でならした岩本義行さんと並んで、この6月2日に亡くなった小鶴誠さんだった。小鶴さんは優勝した年、51本のホームランを打ち、161打点をあげて2冠に輝いた。当然、MVPとなった。

持病の腰痛で活躍した期間は割りと短く、昭和33年に引退しているが、私はそれからさらに30年近くたった昭和61年に一度会って、話を聞いたことがある。小鶴さんは73歳になっていた。

池袋の喫茶店で会った。バッティングセンターからの帰りだと言った。ここ6、7年、毎日200球ほど打っているんです、と笑った。

「バッティングって難しいんです。体の力がうまく抜けて、気持ちよく打てた。これだ!これでバッティングの真髄をつかんだ、と思っても、翌日打ってみると、もうその感覚はなくなっているんです。そういう感覚が、現れては消え、消えてはまた現れる、という状態がずっとつづいています。どうやら、バッティングというものが永久にわからないまま、死ぬのかもしれません」

面長な顔立ちがヤンキースのジョー・ディマジオそっくり、華麗な長打力もそっくり、というところから“和製ディマジオ”と言われたのが小鶴さんだった。その小鶴さんが73歳になってもまだ、毎日バッティングセンターに通って200球打っている、と聞いて、気持ちがシンとなった。

あまりにも生真面目に打撃について語る小鶴さんに、私は驚き、感動した。

73歳になって、何のために?

確かに小鶴さんは、子どもたちにバッティングを教えていた。

「これだ!とつかんだものを、子どもたちに教えます。ところが、力を抜いてスイングするんだ、とアドバイスすると、からだ全体のバネがゆるんで、スイングがバラバラになってしまう。どうしてもうまく教えられないんです」と嘆いていた。

打撃理論を極めようと努めるのは、ただ単に子どもに教えるためだけとは思えない。といって、プロ野球や社会人・学生野球の打撃コーチになる年でもないだろう。

では、なぜ?

野球(打撃)の神様に魅入られた人だけがもつ「業(ごう)」とでもいうものだろうか。

野球にかぎらず、レベルを越えて「スーパー」と名付けたくなるアスリートには、素人にはわからない心の深みがある。

ときに、その深みを狂気の光のようなものが走る。

こちら側、つまり見る側の人間にとっては、それは至福の光、といってもいいものなのだ。

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