むかし「松竹ロビンス」というかわいらしいチーム名をもった、プロ野球の球団があった。 昭和25年、セ・パ両リーグに分裂した年、セ・リーグ優勝したのが、その松竹ロビンスだった。監督は後にラジオ・テレビの名解説者となり「なんと申しましょうか…」と独特の飄々とした語り口で“小西節”といわれた小西得郎さん。
球界きっての洒落た遊び人、とうらやましがられた小西さんは「老いらくの恋も忘れて球遊び」という優雅な一句を残している。 そのチームの中心が“神主打法”でならした岩本義行さんと並んで、この6月2日に亡くなった小鶴誠さんだった。小鶴さんは優勝した年、51本のホームランを打ち、161打点をあげて2冠に輝いた。当然、MVPとなった。
持病の腰痛で活躍した期間は割りと短く、昭和33年に引退しているが、私はそれからさらに30年近くたった昭和61年に一度会って、話を聞いたことがある。小鶴さんは73歳になっていた。
池袋の喫茶店で会った。バッティングセンターからの帰りだと言った。ここ6、7年、毎日200球ほど打っているんです、と笑った。 「バッティングって難しいんです。体の力がうまく抜けて、気持ちよく打てた。これだ!これでバッティングの真髄をつかんだ、と思っても、翌日打ってみると、もうその感覚はなくなっているんです。そういう感覚が、現れては消え、消えてはまた現れる、という状態がずっとつづいています。どうやら、バッティングというものが永久にわからないまま、死ぬのかもしれません」
面長な顔立ちがヤンキースのジョー・ディマジオそっくり、華麗な長打力もそっくり、というところから“和製ディマジオ”と言われたのが小鶴さんだった。その小鶴さんが73歳になってもまだ、毎日バッティングセンターに通って200球打っている、と聞いて、気持ちがシンとなった。 あまりにも生真面目に打撃について語る小鶴さんに、私は驚き、感動した。 73歳になって、何のために? 確かに小鶴さんは、子どもたちにバッティングを教えていた。 「これだ!とつかんだものを、子どもたちに教えます。ところが、力を抜いてスイングするんだ、とアドバイスすると、からだ全体のバネがゆるんで、スイングがバラバラになってしまう。どうしてもうまく教えられないんです」と嘆いていた。
打撃理論を極めようと努めるのは、ただ単に子どもに教えるためだけとは思えない。といって、プロ野球や社会人・学生野球の打撃コーチになる年でもないだろう。 では、なぜ? 野球(打撃)の神様に魅入られた人だけがもつ「業(ごう)」とでもいうものだろうか。
野球にかぎらず、レベルを越えて「スーパー」と名付けたくなるアスリートには、素人にはわからない心の深みがある。 ときに、その深みを狂気の光のようなものが走る。 こちら側、つまり見る側の人間にとっては、それは至福の光、といってもいいものなのだ。 |