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■vol.166(2003年10月1日発行)

【杉山 茂】 問いかけられる球技の頂点強化
【早瀬利之】 宮里藍、史上初の高校生優勝が教えるもの  
【佐藤次郎】 敬遠は悪なのか  
【岡崎満義】 「人の世のそと」からの光 ―ヤンキース松井の最終試合を見て―


問いかけられる球技の頂点強化
(杉山 茂/スポーツプロデューサー)

チームスポーツ(ボールゲーム)が落ちこんだ低迷の沼からなかなか脱け出せない。

9月末に次々と行われたアテネ・オリンピック予選で男女のウォーターポロ、男子のバスケットボールとハンドボールが敗退、女子ハンドボールも自力では道が開けなくなっている。

同時期に開かれていた女子サッカーのワールドカップでは、日本代表がベスト8入りを逃してもいる。

このあとプロ組織を持たぬバレーボール、バスケットボール、ホッケー(いずれも男女)が、宿願をかける。日本オリンピック委員会(JOC)の揚げる「球技復活」は果たせるだろうか。ラグビーのワールドカップも気になる。

チームスポーツの低調は、日本のスポーツ界を襲った「少子化」と「企業スポーツの活動縮小」の2つの波をモロにかぶったもの、とは云いつくされている。

それは「学校」と「企業」にすがった過去の流れのツケでもある。

薄氷とまでは云わないが、極めてもろい基盤に支えられているのを知りながら、スポーツ界は、ほとんど手をつけぬままであった。

少子化−学級の減少−教員数の削除が、ジュニア層の中学・高校スポーツ界を揺さぶるのは、早くから見えていた。

企業がスポーツと縁を切るのは、今に始まったことではない。半世紀の“歴史”がある。

これまでは、消えていくチーム(選手)に新しいユニホームを持って迎え入れてくれる次の手があった。今はそれが無い。

チームスポーツは、個人系スポーツのメダリスト級を多数抱えなければ、世界に伍すことはもとより、アジアの壁を突破できない。

底辺部分と頂点部分が同時に揺らいでは、メダリスト級など、夢は遠くなるばかりだ。

大きな掛け声の新基盤「地域密着のクラブ」は、競技力、それも国際レベルは、ほとんど視野に入っていない。目的は“身近なスポーツ”の拡充なのだ。

オリンピックやワールドカップクラスの大会における競争力を、この先、日本はどのように高めていくのか、先週伝えられた結末は「復活」の難しさを感じされるばかりではないか。

打開策に「プロ化」をあげるスポーツ界関係者が少なくない。

「プロ化」。容易でないにも拘らず、だ。第一、日本のスポーツ組織の大半は「プロ」を抱えるほど成熟していない。

スポーツ界は、セ・パ両リーグは別もの、と思っていたところへJリーグの“成功”を目(ま)の当たりにした。

我々も、とプロへの道を探りながら、Jリーグヘ続く力が、いまだに生れていないのは、その1点につきよう。

チームスポーツが描くアテネ・オリンピック予選の推移は、単にその結果(勝敗)への興味だけに終わらない。日本のスポーツ界の頂点強化はどうあるべきか、重大な問いかけとなろう。

ひとにぎりの華麗な個人系スポーツの成果で、土台への視線を薄らさせてはならない―。

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宮里藍、史上初の高校生優勝が教えるもの
(早瀬 利之/作家)

ついにというか、女子高生のアマがプロの試合に出場して初優勝した。私の記憶では、1913年の全米オープンに優勝したフランシス・ウイメット(20歳)よりも年少で優勝したことになる。

宮里藍(18歳)は東北高校の3年生になって5ヶ月である。しかも−5での優勝だった。私はすぐに父親の優さんに電話を入れた。しかし不在だった。携帯電話にかけたが、通じない。やむなくFAXを入れた。その中に、大学進学か、プロ転向で迷う親子のことがあったので、私は「これで大学進学ですね」と、ひとこと書いて送った。

今思えば7年前、まだ小学生だった藍ちゃんが、私の電話をとった日が懐かしい。「お父さんの仕事は?」と聞いたとき「お父さんはティーチングプロです」と答えた。父親の優さんは今ほど有名ではなく、職業も知られていなかった。

昔の取材メモを見たら、1983年の大京オープンにアマチュアの宮里優の名前があった。地元アマチュア代表として出場していたのである。あれはたしか、牧野裕が優勝した年である。

宮里優一家は、優さんが村長選に出馬したばかりに、ドン底に落とされたことがある。落選したため、政敵からの圧力で2年間、仕事につけなかった。自殺も2回、考えている。転職を諦めた優さん(現在57歳)は、やむなく、喰えるとは思わなかったティーチングプロに転向し、近くの練習場でレッスンをとって、いくばくかのお金を稼いだ。

子供3人へのレッスンは、その合間の時間をさいてのことだった。子供3人乗せて、夜の10時頃車で1時間先の東村の自宅に帰ることもあった。一家の生計を支えたのは、妻豊子さんの月給で、レッスン料は子供の遠征費用に消えたそうである。 父親の優さんは「貧乏ということはハングリー精神を養ってくれた」と、昔のことを語ったことがある。

この一家のことは、いつかドラマか小説にしたいと考え取り組んでいる。長男の聖志も次男の優作もプロになったが、ゴルフを通じて明るい家庭を取り戻した一家である。かつて村役場の教育委員会に勤めていただけに、「学校1番、ゴルフ2番」と、勉強することを優先させている。優作も藍も、遠征先で宿題をやったり、日記をつけたりしている。

「ゴルフだけでは、人に感動を与えない」という教育が、みごと藍ちゃんの、世界史上初の優勝となった。

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敬遠は悪なのか
(佐藤 次郎/スポーツライター)

野球という競技において、敬遠の四球はそんなに悪いことなのだろうか。
 
敬遠という行為については、とかく厳しい目が向けられる。基本的によくないことだという意識が、メディアにも関係者にもあるようだ。あの松井5敬遠の時を思い出してみればいい。敬遠の指示を出した明徳義塾高の監督は、それこそ口をきわめて非難された。純粋な球児の心を踏みにじる行為だというのである。
 
最近では、西武のカブレラが、敬遠に対してさかんに彼なりの批判を繰り返しているのが目についた。左打席に入ったり、バットをさかさまに持ったりといった具合だ。そうした姿を見ると、敬遠する側はいかにも卑怯な手を使っているように見えてしまう。
 
が、そうだろうか。敬遠はそんなに汚くて、野球の精神にもとるものなのだろうか。
 
野球がチームスポーツなのは言うまでもない。相手より1点でも多く取って、言い換えれば、相手の得点を1点でも少なく抑えてチームに勝利をもたらすのが目的なのだ。敬遠の四球はルールの範囲内の作戦である。

実際、あの甲子園で明徳は松井のいた星稜に勝っている。好き嫌いはともかく、あれほど手厳しい批判を浴びせるべきものではない。そこに、正々堂々だの純粋だの高校野球の精神だのと、観念的でそのくせ中味のないお題目を並べるのはどだい間違っていた。
 
プロ野球ではまたちょっと違う。もちろん高校野球のような情緒的な拒否反応はないし、カブレラのパフォーマンスにも、観客を楽しませる意図や、相手を挑発して戦いを有利に進めようという意味などがあるのだろう。

しかし、いかにも敬遠を悪として相手をなじるがごときわざとらしさには、正直いって嫌気がさす。さんざん歩かされた王貞治は、そんな姿を見せなかったのではないか。
 
タイトル争いのために、他チームのライバルとの勝負を避ける行為は論外で、大いに批判されねばならない。シーズン終盤になって、セ・リーグの本塁打王争いではさっそくその愚が行われている。これはプロ野球が自分で自分をおとしめる行為で、絶対にやってはならない。

だが、作戦としての敬遠に妙な感情論や建前を持ち出すのはおかしい。というのも、スポーツに関する論評には、正論のように見えて、実は型にはまった筋違いな物言いが、この場合と同じようにままあるからだ。
 
安易に勝負を避けるやり方は試合の面白みをそぐ。ファンであれば誰でも真っ正面からの勝負を見たい。が、そのことと、筋違いの観念論はまったく無関係なのだ。

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「人の世のそと」からの光 ―ヤンキース松井の最終試合を見て―
(岡崎 満義/ジャーナリスト)

9月29日(日本時間)、ヤンキースの最終試合、163試合目の対戦相手はオリオールズだった。松井秀喜はDHで登場し、会心のヒットを中前に放って、今シーズンを締めくくった。

おみごと!と思わず拍手した。初体験の大リーグの長丁場を、全試合出場した松井の心身の強靭さに、本当に感心した。広いアメリカの時差と南北の寒暖の差を克服しての、それもナイトゲームとデイゲームが入り交じるというハンディを乗り越えての全試合出場は、よほど優れた体力と精神力の持ち主でなければ、できることではない。

ところで、この試合で珍しいシーンを見た。ヤンキースに3Aから上がったばかりの若いヘンソン選手が、メジャー初安打を中前に打ったときのことだ。テレビの画面にファーストベースに立つヘンソンの、まことに初々しい、うれしそうな顔がクローズアップされた。アナウンサーは、彼が大学時代、アメリカンフットボールの名QBであったことを紹介した。司令塔QBがしっかりつとまるとあれば、頭もいいだろう。気のせいか、ヘンソンの表情には、初々しさの中に、どこか知的な輝きが見えるような気がした。

画面にはつづいて、ヘンソンが打ったボールがセンターからセカンド、ファーストを経て一塁塁審へ、さらにヤンキースのコーチ、そしてベンチへと手渡されていったところが映されたのである。ベンチのコーチや選手たちはニコニコ笑いながら、みんながボールを手に取り、何か話している。メジャー初安打となった記念ボールは、あとでヘンソン選手に、祝福の言葉とともに渡されることだろう。なんとも心温まるシーンだった。

日本でもこういうシーンはあるのだろうか。これまでテレビで、そんな映像を見たことがなかったので、いっそうこのシーンが印象に残った。ヘンソンは将来、立派な選手になって、10年、20年経って、この日のボールのことをどんな風に思い出すだろうか。あるいは、大成することなく、球界を去ることになることだってありうる。失意の日にこのボールを見ることになったとき、何を考えるのだろうか。

そんな想像は感傷にすぎない。とは分かっているのだが、ついついそんな想像に見る人をさそいこむいい映像だった。テレビ中継担当カメラマンと、ディレクターの目のつけどころの良さをひしと感じた。

ちょうど同じ日、9月29日付朝日新聞の読者投稿歌壇に次のような短歌が載っていた。

「満塁のピンチとなりし球場に蜻蛉流るる人の世のそと」

球場は手に汗にぎる熱戦、今まさに満塁というピンチ。ところが、ふと目にしたトンボは何事のないかのように、自然の風に身をまかせて、悠々と飛んでいる。そこだけ、この世ならぬトンボが飛ぶ小風景のように見える…。

そんな短歌であろうが、私には、野球そのものが「人の世のそと」のことのように受けとれた。野球はもちろん、人の世のうちのことである。だからこそ、私たちは現実にそれを見て手に汗にぎり、一喜一憂し、応援する。

しかし、野球には(スポーツはみなそうではあるが)熱中すればするほど「人の世のそと」と思わせる何か貴いものがある。野球に熱中するものだけが見ることができる「人の世のそと」から射してくる光がある、と思うのである。

そんな光があることを信じて、私は野球を見続けるのである。

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