奇異な光景、といえた。静岡国体秋季大会総合開会式(10月25日)。予定されたプログラムがクロージングを迎えたとはいえ、まだ、47都道府県選手団が、退場の順番を待ってフィールドに残っていた。それなのに多くの観客が帰りを急ぎはじめ、席を立ったのである。
明日からの競技に臨む選手たちに声援と拍手を送ってこそのフィナーレ、ではないか。私は国体のセレモニイを比較的よく見ているつもりだが、このような“空しいシーン”は、ちょっと記憶にない。
最後までの励ましと着席を望んで、毎年「式後アトラクション」が用意され、この日も、場内に充分な予告がされている。 それでも、出口へ向かう人がつづき、選手団は、残った“僅かな観衆”に、笑顔をのぞかせ、手を振りながらゲートへ向かうことになった。
近ごろ、スポーツの終了後のムードは、味気ないケースが多い。 快進撃の今シーズンに限らず「六甲おろし」をうたいあげるまでが、試合とセットになっている甲子園球場のタイガース戦は異例に映るが、スポーツのエンジョイという点では、なかなかのものである。
競技やセレモニイが終われば、さっさと次の関心事へ気持ちをスイッチする(させる)現代生活のせわしなさか。余韻を残さぬテレビ中継が、余裕のあるスポーツの見かたをスポイルさせる、という声を耳にしないでもない。
だが、いちばんの理由は、まだまだ、日本人には「スポーツが根付いていない」ことだろう。 熱狂という点で同じに想えるワールドシリーズと日本シリーズを、テレビ画面で見比べると、前者には、心からスポーツを楽しむ姿があふれている。
ベースボールをこよなく愛す心がまずあり、その基盤の上にマーリンズとヤンキースが立っているのだ。 国体、ましてや、スポーツ関係者以外の顔が多い開会式との比較はムリな部分もあるが、“見るスポーツ”の責任が成熟せず、とあっては“見せるスポーツ"側の充実も勢いはつくまい。
スポーツ発展の「総合戦略」を考えぬと、日本のスポーツは、いつまでも底の浅いまま、過すことになる―。 |