「十二番目の天使」(オグ・マンディーノ著、坂本貢一訳、求龍堂、01年刊)という本を読まれたことがあるだろうか。 私はこれを読んだときから今に至るもまだ小魚の骨がのどの奥にささっているような感じが残っていて、早くこれを取り除きたいという思いと、グローバル化が進行しつつあるなかで本書が提出している問題が解決できるのかという思いとがからみ合って、「号泣」(後述)はともかく、できることなら品川区や荒川区などの競争中心主義の教育を進めている教育委員や教師からこの答えを聞きたいと思ったりしているところである。
同書はわが国でも多くの読者を獲得したといわれており、著者のマンディーノ氏は1923年生まれ(だからもう80才)の「世界中で最も多くの読者をもつアメリカの人生哲学書作家」と紹介されているから、さしずめ現代のホレーシオ・アルジャ(「ブラック・ボーイ」(下)参照)のような人といってよく、そうであればこのテの作品はお手のものだろうし、訳者はもちろん彼の妻も出版社の編集者も社長もそろって「号泣」したそうであるから、著者としては十分に「してやったり」といえる作品に仕上がっているといってよいであろう。かくいう著者も「号泣」こそしなかったが、要所で涙ぐんだというのは述べておかなければならないことである。
さてこの作品の主人公の一人は「コンピューター・ソフトの製造分野で世界第三位のミレニアム社の新社長」にヘッドハンティングされたジョン・ハーディング氏、もう一人は彼が新社長に就任するまでの僅かの間コーチすることになった地域のリトルリーグのプレイヤー、ティモシー・ノーブルというケタ外れに野球がヘタな(その原因は手術不能なところにある脳腫瘍で、しかも彼は医者からそれを告知されている)、しかしとても熱心に練習に参加する母子家庭の一人っ子で、この二人が野球を通じて相互交流を深め、最後の試合で彼が「初ヒット」を打ち、しかも仲間のヒットでホームベースを踏み、優勝して全員から胴上げされるという物語である。
読者がこれをどのように読むかはともかく、子ども用のスポーツ小説で、野球技術の解説書でも、野球を利用した道徳教育書でもないとした上で、たとえば以下の文章を読んでどのような感想をもたれるだろうかというのが筆者の本論執筆動機である。
バッティング練習で「一番最後に打席に入った彼(ティモシー)に、私は、できる限り遅いボールを投げたのだが、それを彼は、いつになってもバットに当てられない。あのぎこちない構え方と極端なダウンスイングでは、おそらくいつになっても当たらないだろう。あまりにもひどすぎてアドバイスのしようがない。『ティモシー』、私は言った。『頑張って練習さえすれば、お前だって、きっといい選手になれると思うぞ。他の選手よりも、ちょっとだけ余計に練習すればいいのさ。人間はどんなことでも、頑張れば頑張っただけ、うまくなれるんだ』」(111から112頁)。
近年、わが国では「がんばらない」という本が書かれ、阪神大震災のときにも「ガンバレ!」は禁句と言われた。筆者らの研究会では30年も昔から子どもたちに「ガンバレ!」という教師は「いま君たちに適切なアドバイスができないということを暴露する行為」と断定して禁句にしている。
個別に詳述している余裕はないが、わが国のどの学級にも「日本のティモシー君」がほとんどすべての教科学習のなかに必ずいて、どの教師もが「ガンバレ!」では解決しない彼らと格闘している。それが「他の人よりちょっとだけ余計に学習する」という方法や習熟度別学級編成などで解決できないというのは戦後教育実践史がすでに明らかにしてきたことであるし、全国のどの運動部にもいる「日本のティモシー君」を抱えている教師やコーチはそれだけで十分に胃痛を倍増させている。
このような彼らにこの「十二番目の天使」は具体的な何らかの解決策を示したか、ティバッティングを採用してみるなどの実験的な試行を行ったかなどという視点から再読してみると、主人公のティモシー君を不治の病人に設定して書かれたことの意味が鮮明に浮上してくる。
つまりこの著者は初めからティモシー君をいいバッターに育てるということを断念、放棄した上でこの作品を書いたということになる。 しかし、わが国の部活顧問やコーチはそれを断念、放棄しておらず、そうであれば「号泣」してほしいのは彼らや「日本のティモシー君」に対してでなければならないだろうと思うのである。 |