作家の椎名誠さんが“不良横綱”朝青龍擁護論を書いている。(週刊文春2月12日号) 「横綱は『心・技・体』のバランスがきちんとしていなければいけない。すなわち、社会や子供たちの規範となるよう正しい行動、正しい発言、正しい生活姿勢でいるべきである。だからそれができない朝青龍には引退勧告すべきだ、なんていうことを横審のメンバーが本気で言っているらしいと知ってまたもやびっくりし、同時に笑いたくなってしまった」
モンゴルに何度も行って、すっかりモンゴル通になった椎名さんは、モンゴル相撲にもくわしいから「日本の相撲組織の偉い人が気に入らないという朝青龍の『きてみろこのやろう!』といわんばかりの仕切り前の顔も、勝ったときのガッツポーズなどもモンゴルの弱肉強食スポーツでは当然の顔なのである。しかも今場所など朝青龍のそうした気合の入った顔と体は実にきっぱりと充実していて、五月人形か博多人形を見るようだった」と評価する。
私は朝青龍が横綱になったとき、若くして亡くなった横綱玉の海のような、小柄ながらどっしりと安定感のある横綱になるのではないか、と期待したので、椎名さんの朝青龍擁護論に賛成する。朝青龍が、旭鷲山のマゲをつかんで反則負けになったり、土俵の外でも"先輩"旭鷲山に礼を失したふるまいがあった、というような行動とともに、初稽古を無断で休んだ、モンゴル帰国時にスーツを着ていた、先代親方の葬儀に欠席した、と批判された。しかし、言ってみれば、“発展途上国”的な若い横綱なのだから、この程度のことはそのたびに口頭で注意すればすむことだろう。心技体の「心」に欠ける、というほどのことではあるまい。
第一、スポーツにおける「心技体」でいう「心」は、品行方正であることとイコールではない。そんなことは結果論の切れっ端のような些細なことだ。力士はあくまで勝つために体を鍛え、技を磨いているわけで、品行方正紳士になるために、そうしているのではない。
すぐれたスポーツアスリートを見る喜びとは、まさに彼らの「心技体」に触れた(と思える瞬間に出会う)ことだ。どんなスポーツにも「心技体」はあるのだが、ハダカ一貫の相撲が「技」と「体」はもっとも見えやすい。ツヤがあり、ハリのある体、切れ味鋭い技は、素人にもそれなりに分かる。
しかし「心」は見えにくい。見ようとして見えるものでもない。心は風のようなものだ。風そのものは目に見えないが、木の葉を鳴らし、揺らすことで、風が感じられるように、心も、心そのものを見ることはできない。鍛えた体と磨き上げた技をもつ力士が、立上がる前の仕切りのときに、ぶつかりあった瞬間に、技が決ったときに、その汗の筋肉や紅潮した表情に一瞬かすめる「心」の表出が見える―それこそがスポーツの醍醐味なのである。
心理は読み解くことはできるだろう。しかし「心」はモノとして、ただ感ずる以外に、その存在を知ることはできない。スポーツアスリートだけではなく、フツーの人も「心」をもっている。それなのに、「心」をモノとして感ずることは、滅多にあるわけではない。「心」は「技」と「体」とのつながりの中にしか、顔を見せてくれない。
力士の「心技体」に幸運にも出合うとき、フツーの人間にとっての「心技体」にも思いをめぐらすことができる。それは人生の幸福のひとつだ。「心技体」は品行方正のお利口さんになるためのものではないのだ。 |