アテネ五輪で日本女子選手の活躍ぶりは、目を見張るものがあった。マラソン金の野口みずき、水泳800m柴田亜衣はただただスゴイ!のひと言につきるが、種目(陸上、水泳という)として見れば“点”の快挙である。
ところが、柔道、レスリングは全員、いわば“塊”の快挙であった。惜しくもメダルには届かなかった柔道の日下部基栄、銅メダルに終わったレスリングの浜口京子は、いささか残念だったが、それも含めて女子柔道、女子レスリングは驚嘆すべき力を発揮したといえる。
ところで、私は女性がなぜ格闘技、体と体をぶつけあう格闘技を行うのか、不思議でならなかった。長年の謎であった。「女丈夫」「女傑」「男まさり」「女だてらに」という言葉は、今や死語となったとは理解するものの、それでも男と同様に格闘技に打ち込む女性が少なからずいて、しかも世界レベルで見ても強い、という事実を突きつけられて、どうしても自分で納得できる答えが見つからないのだ。
すぐれた体、運動神経を持つ女性はもちろん少なくない。陸上競技や水泳、バレーボール、ソフトボールやサッカーを好む女性がいてもおかしいと思わない。
女子サッカーの草分け的選手だった本田美登里さんにインタビューしたとき、「女子サッカーは女性解放が進んでいる国ほど強いんですよ」という言葉を聴いて、なるほどと思った。
そこまでは何とか理解できるのだが、激しい肉体的接触、取っ組み合いの格闘技に、女性はなぜ興味を持って、進んで身を投ずるのかは、どうしても分からない。
抱擁やキスという肉体的接触が日常生活の中で当たり前のことになっている西欧社会にくらべ、日本ではまだまだそこまではいっていない。極端に言えば、日本人にとって人前での肉体接触はタブーに近い行為といえるだろう。女性の身体はやわらかいもの、そこに女性独特のセックスアピールもある、という古い身体観が私の中に巣食っていて、女性と格闘技の結びつきを素直に受け入れさせないのであろうか。
スポーツの選択肢はいくつもあるのに、なぜ格闘技を選ぶ女性がいるのであろうか。疑問は次々に起こってくる。 そう思いながらも、私は女性の格闘技が嫌いなわけではない。その逆で、見ているとある種の爽快感を覚えるのだ。アテネ五輪の柔道もレスリングも、実に気分よく見た。どこにも不自然さはない。堂々と、自分の体のすべてを開放して、力のかぎり取っ組み合い、もつれあい、素晴らしい技を連発した。彼女たちは少しも男性的ではなく、中性的でもなく、フツーに女性的であった。勝者たちが自然に、過不足なく女性であることに、感動すら覚えた。
彼女たちについて多くの報道を読んでいるうちに、一つの共通点が見えてくるようだった。それは、大半の人が子供の頃から、物心つく前、つまり男と女と未分化の段階で、格闘技と出会っているということだ。子供の頃に格闘技と出会う環境があった、ということだ。
世間の男女観、親世代の意識の変化、具体的には格闘技道場の拡大、世界の格闘技情報の流入などが、近年、目立ってきた。ある環境が出現すれば、そこに没入していく子供―男と女を問わず―も出てくる。女性がマラソンや水泳やサッカーをするように。ごく自然に格闘技に入っていくのだ。
子供たちは男、女という意識の前に、自然に人間として格闘技に触れていくのだ。つまり男的環境でもなく、女的環境でもなく人間的環境がしっかりあれば、格闘技へ参入する女性もでてくる。初めは男女いっしょに、やがて男と女に自然に分かれていく。先天的な素質はもとより大切だが、それよりも、よい環境が大事だろう。男と同じように女も負けずに格闘技をしたいからする、ではない。環境がととのえば、男も女も同じ人間として格闘技ができる、ということだ、と考えた。そんなことが今ごろ分かったのか、と言われそうだ。私がやっとたどりついた結論だが、どんなものだろう。 |