今週の日曜日・10月10日は、東京オリンピックが開かれて40年目にあたる。 東京・国立競技場の記念イベントは、今を時めくサッカーの国際試合がメインになるという。9月末、横浜で行われた国際陸上競技会あたりと“合体”して、賑やかで華やかな一日が企画されてもよかっただろうに、ハナから、そのようなアイデアは浮かばずに過ぎたらしい。10年後を待つとしようか。 あの頃はアマチュアリズムが絶頂にあった。40年経って、集客を見込めて頼れるのは、プロのカラーが濃い“興行”である。それだけの時間が経っているのだ。「見れる」内容でなければ人は寄って来ない。 時の流れの速さに沿って日本のスポーツの本質は変わったのだろうか。遅まきながら国立スポーツ科学センターも建ち、総ての面で“マネー”がタブーとされなくなった。表向きは“進化”を遂げたように思える。 だが、本当に“スポーツの時代”を迎え、“スポーツの国”に発展しているか、となると、自信をもって、そうだ、とは云い切れない。 各地に次々とそびえる鳴りもの入りの大施設は、すぐに後利用に行き詰まり、社会問題化する。中規模で、競技上、運営上、観戦上の利便に秀れたスタジアムやアリーナは、どれだけ造られたのだろう。 指導者が揃い、アフタースポーツの快適さを備えた手軽な体育施設は、どれだけあるのだろう。 見せるスポーツの掛け声は大きく高いが、見せる側の構えは、どこまで高まっているのだろう。 学校体育と地域スポーツは、どのように交錯し、明日へ向かおうとしているのだろう。学制の枠を越えた年令別の“一貫システム”も緒についたばかりだ。 表現は違え、東京オリンピックの直後「これからの日本のスポーツの姿」として、識者が説いた問題点がそっくり残っている。 「スポーツ」を考え、実践する一本化した体制は、依然として生まれず、各スポーツは、2、3の例外を除いて、事業化を見送ったままだ。 メディアは、スポーツ自体の媒体力の充実にすがって、スポーツの発展よりも、自社、自局の打算に流れる情けなさである。 10月10日は、オリンピックの火が、回想的な仕込みで燃える予定、と聞く。 東京オリンピックが生み、育てたスポーツの結晶を輝かすよりも、“遺跡”に火を灯しオールドタイマーの郷愁を照らし出すだけでは、拙かろう。 日本のスポーツの革新と、文化としての成熟は、東京オリンピックを知らない世代に期待することになるのだろうかー。 |