1998年冬季長野パラリンピックに、アイススレッジホッケーでキャプテンを勤めた加藤が冬の障害者スポーツに関わるようになったきっかけは、長野県が冬季オリンピックの会場に決まったことで、「日本の選手が出なければ、開催国として立場がない」という理由から。 もともと車いすバスケなどをやり運動能力の高かった彼は、その当時まだ日本に入ってきていなかったこの冬の唯一のチームスポーツ・アイススレッジホッケーに抜擢されたのだ。
日本代表として長野大会4年前にあたるリレハンメル大会に参加するべく、1993年からチームを編成し、海外からコーチや選手を招いて技術向上をはかり、世界と戦えるチームを作っていった。 オリンピックでもパラリンピックでも、「開催国」のメンツというのは、相当なものがあるらしい。
次回2008年北京オリンピック開催の中国は、このアテネ大会で、オリンピックだけではなくパラリンピックでも大躍進。参加136カ国の中で3番目に多い選手団を送り出し、前回のシドニーを大幅に越える63個の金メダルを含む141個のメダルを獲得。地域別順位の1位となり、大会最終日を終えた。
今回の中国のメダルの内訳を見ると、陸上や水泳といった個人競技でのメダル獲得がほとんど。しかし、現在代表チームの活動がない車いすバスケやラグビーなども、4年後には開催国枠として出てきたとしても、メダルを狙ってやってくるに違いない。 一方韓国では、やはり開催国であったソウル大会では劇的にメダルの数を増やしたものの、その後は低迷が続く。
ある韓国メディアの人間は韓国の障害者スポーツの状況について、趣味やリハビリの域を越えていないし、国や企業もお金を出さないと嘆いていた。パラリンピック自体の競技化が進んでいる中で、韓国人選手も「アスリート」の意識で出場している選手もいるのだが、メディアの取り上げ方は選手の結果や成績よりも、「障害と戦う涙ストーリーや家族との感動秘話」を求めており、パラリンピックの選手たちを「スポーツ選手」として見る空気にないという。 日本は今回、シドニーを越える52個のメダルを獲得したものの、選手強化の部分ではまだまだ選手個人の負担に負うところが大きい。
こうした事情は、障害者スポーツだからというより、「スポンサー募集」で話題となったオリンピックの女子ホッケーも同様なように「マイナー競技」ゆえの厳しさもあるのかもしれないが、パラリンピック強化費用はオリンピックの足元にも及ばない。
また、選手の年齢を見ても過去2大会、3大会を経験したような三十台中盤から後半の選手が多いように、簡単に選手を探して育成できない障害者スポーツだけに、次の北京までの間に、障害者スポーツの普及と世代交代がうまくいくかも日本のポイントとなるだろう。 17日から始まったパラリンピックアテネ大会はいよいよ閉幕。
オリンピック開幕前からギリシャの準備不足や警備の問題がいろいろ取り上げられたが、そこはマイペースなギリシャ人。最後はきっちり帳尻を合わせて、108年ぶりに戻ってきたオリンピック発祥の地で、パラリンピックも成功させた。
また、「障害を持った人が一生懸命にスポーツに取り組む」姿に襟を正して観戦するのではなく、単にスポーツとしての勝った負けたや、その場の雰囲気に大騒ぎする、脳天気なまでに明るいギリシャ人ボランティアや観客の大会を楽しむ姿勢は、多いに大会を盛り上げたし、選手たちにとっても力になったに違いない。 最後の最後で、パラリンピックを観戦にきた学生の乗ったバスが事故に合い、死傷者が出るという悲しいニュースが飛び込んできたが、12日間に渡って繰り広げられたパラリンピックの選手たちの熱い戦いは、オリンピック同様、もしくはそれ以上にギリシャの人たちの胸に刻まれたはず。 次は北京で。
選手のみなさん、お疲れさまでした。そして、ありがとう。 (アテネ発) |