「私の4年間はなんだったんやろ」。土田との接触で5000mを棄権した後の畑中は、取り囲む取材陣を前に呆然としていた。
「マラソンも残ってるけど、5000mにかけてたんで…」。 畑中と土田は5000m、マラソンの2種目とまったく同じ種目でエントリーしており、パラリンピック二人の対決初戦の5000mでは土田が金メダル。畑中は涙を飲んだ。
アトランタに続き、シドニーでもマラソン・銀メダルを獲得した畑中だが、一時は引退を表明。一方長野冬季パラリンピックから出てきた土田は、夏の大会初参戦のシドニー後は「プロ」として多くの時間を陸上の練習に費やし、めきめきと実力をあげ、2003年にマラソンで世界新記録を作り脚光を浴びる存在となった。
そんな土田の存在が、畑中にもう一度戦う気持ちを奮い立たせた。 同じ種目でエントリーする二人が二人とも、目標は「5000mとマラソンの両方金メダル」。どちらも一歩も譲るつもりはなかった。だからこそ5000mは「棄権」という、勝負のつかないところで土田に甘んじた畑中のショックは大きく、中は5000mのレース後、マラソンも棄権しようとさえ考えた。「2つ金メダルをとらないと意味がない」。そう思っていたからだ。
しかし周囲の励ましにも支えられ、気持ちを入れ替えて臨んだマラソンで、ライバルの土田を押さえて、見事念願の金メダルを獲得。
シドニー後4年間がんばってきた自分を、ようやく自分自身で認めてあげられた。 プロとして活動してきた土田に対し、仕事をしながら競技を続けてきた畑中。しかし畑中も今回アテネに向け、会社を1年間休職して練習をつみ、アテネに臨んだ。
一方車いすマラソン男子(T52)で優勝した高田のように、公務員として働きながら、仕事後や週末を練習・試合にあてながら活動を続け、競技を初めて8年目にしてパラリンピック初出場、そして400m、1500m、マラソンと3つの金メダルを獲得したものもいる。
そんな高田は障害者スポーツについて「才能や素質だけでは戦えない。障害者は、一度壊れた体をもう一度、スポーツをできる体に作り治すことからしなくちゃいけないんです」
プロになったから優勝するとは限らない。仕事の傍ら競技をするから負けるとも限らない。 どちらにせよ、世界という大舞台で戦うためには、競技に向けてあらゆるものを犠牲にして、気の遠くなるほどの日々の努力を積み重ねてきたことだけは変わらない。
(アテネ発) |